青木野枝展「霧と鉄と山と」

昼過ぎに家族3人で府中美術館に向かった。青木野枝さんの作品にはじめて出会ったのは10年前、美術を専攻する高校生たちへのレクチャーのときだった。鉄という素材でなんと軽やかに空間を構成するのだろうと感嘆した(2010/07/20「鉄と即興」)。翌年1月に東日本橋のギャラリー・ハシモトでの個展(2011/1/29「寒い日」)で見て以来、久しぶりの青木さんの彫刻展だが、今回もすばらしかった。これらをどうやってここで組み立てたのだろうと想像しながら、日常の用途から解き放たれた素材によるのびのびとした自由な造形を楽しんだ。一方チェルノブイリでの印象から生まれた白い石膏の重たい作品もあった。美術館へ行くと言われて今日も不機嫌だったUは作品リストの余白の鉛筆で何やら書きつけていたので見せてもらうと「何をしたいのかわからないが、これは風の通り道だ」とあった。なるほど。帰りにちょっと贅沢をして府中の三松でお寿司を食べて帰る。

ケベック詩選集(立花英裕他編訳、彩流社)

詩を読むことは旅をすることだ。19世紀後半から21世紀の現在まで時代の流れに沿って紹介される36人の詩人のことばの断片を追いながら、2001年の夏に訪れたケベック・シティを思い出した。ページを繰るたびにフランスとはまったくちがったカナダ東部の自然や荒野の風景が広がる。木々の梢のあいだから雪空を仰ぐような表紙も素敵だ。だがここにあるのは自然賛美だけではない。本書の底本の著者、ピエール・ヌヴーの序文は次のように始まる。「北米におけるフランス語表現によるケベック文学の存在そのものが、歴史と入植活動の定説に抗うものであると言えるだろう。」英語系住民との社会・経済格差を生きてきたカナダのフランス語系住民の苦悩がにじむ作品も多い。

1960年にケベック州政府によって開始される「静かな革命」の時期に注目されたミシェル・ラロンドの「スピーク・ホワイト」は英語とフランス語で構成される英語系カナダ人への皮肉に満ちたプロテストである。

Speak white

il est si beau de vous entendre

....

nous sommes un peuple peu brilliant

mais fort capable d'apprécier

...

mais quand vous really speak white

quand vous get down to brass tacks

...

nousはフランス語話者のケベックの民、vousは英語話者のカナダ人である。私たちをバカにしないで。あんたたちが肝心なことを私たちにわからないように英語でしゃべっても、実はちゃんとわかってるのよ、と彼女は語る。speak white「白人のように話せ」とは公共の場でフランス語が話されると英語話者から飛んでくる野次の言葉なのだそうだ(p.195)。フランス語は「黒人=非文明」の言葉なのか。ここには二重の差別が露呈している。

印象に残った何人かの詩人。堂々たるケベック詩の巨人ガストン・ミロン。先住民詩人ルイ=カルル・ピカール=シウイ、ナタシャ・カナペ・フォンテーヌのことばは喪失と再生への怒りのエネルギーを放射する。

マドレーヌ・ガニョンやエレーヌ・ドリオンのささやきは静謐な形象。そうか、久しぶりにアルヴォ・ペルトを聴こうか…。

 

 

 

アチュベとラトゥール

正月恒例の志賀高原スキーのあと、5年ぶりにインフルエンザにかかってしまった。熱はすぐ引いたがしばらく外出できず、アチュベ『崩れゆく絆』(粟飯原文子訳、光文社文庫)を読了。読了後しばらく何とも言えぬ幸福感を味わった。アフリカ文学の第一人者による周到な解説とすばらしい翻訳。訳者の作品に対する情熱がひしひしと伝わる一冊だった。

19世紀後半、イボ族が住むナイジェリア東部州のウムオフィアという架空の土地を舞台として、イギリスによる植民地化に巻き込まれる主人公オコンクァの悲劇の物語が展開する。全体の3分の2を占める第1部ではイボ族の生活文化が、反復の多い口承的語り口によってみずみずしく描写される。集落からのオコンクァ追放を描く2部を経て、白人宣教師やイギリス当局との軋轢、主人公の悲劇的結末を語る3部では直線的な小説的語りにシフトする。読むスピードがどんどん上がるので、読者は語りのシフトチェンジを実感するだろう。このあたり、「いかに語るか」が「何を語るか」と直結する作家の戦略がうかがえる。英語の原文を見ていないが、訳者解説(p.337)によると、イボ語の直接挿入や、イボ語特有のことわざ/言い回しが英語に直訳されることによって英語構造に揺さぶりがかけられる部分も随所にみられるという。こうしたランガージュのふるまいは、宗主国の言語によって現地の文化を描こうとする作家に特有の戦略と言えるだろう。

植民地化と現地文化の対立、とくに宗教における対立の物語が興味深かった。21章でウムオフィアの有力者アクンナと白人宣教師ブラウンとの対話である。ブラウンはイケンガ(勤労、成功、勝利などを象徴する神)の彫像がかけてある垂木を指して、アクンナに向かってこう言う。「あなたがたはそれを神と言っていますが、単なる木切れにすぎません」。アクンナは反論する。「そのとおり木切れですよ。でも、それはチュクウ(天地を創った最高神)がお創りになった木からとったものです。ちいさな神々もまたしかりです。チュクウは神々を使者として創られました。それで、わたしたちが神々を介してチュクウに近づくことができるのです。あなたのようなものですよ。あなたは教会の長でしょう」(強調引用者)[…」この対話によってブラウン氏はイボ族の信仰を大いに学び、正面攻撃をしたところでうまくいかない、という結論に達する。木切れがただのフェティッシュだと断じようとするブラウンはまさに同じ論理でアクンナに応酬されるのだ。たとえばブリュノ・ラトゥールが『近代の〈物神事実〉崇拝について』で議論しているFaitiche論の出発点もこれと同様であるように思われる。もし宗教対話だけが問題であったなら、ふたつの宗教は相互理解を深めて平和共存したのかもしれない。しかし歴史的現実はむろんそうではなく、教会を水先案内として植民地化の暴力が押し寄せる。

イボ族であると同時にクリスチャンの両親のもとイギリスの教育を受けたアチュベは、イボの文化に再アクセスするためにこの小説を書く。しかし自身の成育歴もまたそのアクセスの仕方に影響しているだろう。宣教師のもとに集った最初の現地人は、現地の宗教観によって忌まわしきものとして森に捨てられる双子の子供たちやイボ社会における被差別民オスたちである。キリスト教会がこうした人々を救ったことは事実なのだ、と描かれる。アチュベの宗教の描き方の陰影は深い…。

そうだった、読み損ねてるプラシャドの『褐色の世界史』も粟飯原さん訳だったことを思い出した。読まなくては。

マルティン・ブーバーと猫

冬の季節になるとティーンエイジャーと読む英文のレベルが上がって、面白いものがちらほら現れる。一昨年はマイケル・ポランニーのPersonal Knowledge(1958)の序文の引用に出くわし、おお懐かしいと、ちくま文庫版『暗黙知の次元』を読み返したのだった。「暗黙知は、身体と事物の衝突から、その衝突の意味を包括=理解comprehendすることによって、周囲の世界を解釈する」(ちくま学芸文庫、85頁)。また暗黙知は存在を上位レベルへともたらすアクションすなわち創発emergenceを可能にする。暗黙知は解釈と創造の原動力なのだ。

昨年はおなじくユダヤ系のマルティン・ブーバーと再会した。こちらもなんとも懐かしい。岩波文庫版で『我と汝・対話』を40年ぶりに読み返した。相変わらず神父さんの説教のように〈われ-なんじ〉の関係の意義を切々と説くブーバーなのであった。言うまでもなく、ブーバーが根源語と呼ぶこの人称代名詞の対を発話行為のプロセスの基盤として取り上げたのがバンヴェニストであった(『一般言語学の諸問題』収録の「代名詞の性質」)。発話行為のプロセスのなかにしか定位しないje/tu。一人称と二人称の代名詞の使用は三人称代名詞が担う対象化をともなう指示行為とは別の局面にある。つまり、「私」と「あなた」の応酬は、対話という「いま・ここ」という生きた時空を成立させる。

だが〈なんじ〉への呼びかけはときとして肩透かしを食らわせられるだろう。〈なんじ〉との関係の儚さを、ブーバーは猫のまなざしを例に語る。「存在と現実のすべての関係のうつろいやすさ、われわれの喪失の崇高な悲哀、すべての孤立した〈なんじ〉が運命的に〈それ〉へ変容することなど、猫のまなざしほど深く感じさせるものは、いかなる言葉によっても不可能であるとわたしは思う。・・・わたしと猫の場合には、・・・輝かしい〈なんじ〉は現れて、すぐさま消えてしまう。」(岩波文庫p.123) 果たしてブーバーは猫派だったのか。

ブーバーの関係の哲学をグリッサンの関係の詩学と比べてみよう。もちろん両者のパースペクティヴは根本的に相いれない。「〈なんじ〉と呼びかける関係だけが、新たに神への展望を開くのである」(p.133)と説くブーバー神学において、神は絶対的な彼方にある他者ではなく常に人が呼びかける行為に位置する。一方、グリッサンはそもそも西欧思想の根源にある〈一者〉を告発し、批判する。奴隷船の船内の黒人たちのうめきを「根源」とするグリッサンの詩学には、神無き人間の悲惨を嘆く声はない。しかしアイデンティティをゆらぎとして捉えるグリッサンの確信――「それは、他者なるものとの関係へ、そして交換からもたらされる変化へとアイデンティティを開いていくが、しかしその際にアイデンティティに混乱がきたされることも歪められることもない」(『ラマンタンの入江』p.126)は、やはりコミュニケーションの力と可能性についてのポジティブな態度表明であると言えないだろうか。グリッサンの説くクレオール化とは強制移送された黒人奴隷の身体と環境との衝突からもたらされた。その衝突は創発を引き起こしたのである。暗黙知、とポランニーは言うが、クレオール化とは予測不可能なものだ、とグリッサンは言う。

いつも猫に追っかけられるネズミである僕の今年はさてどんな展開になるのやら。

 

万聖節に

昨日の朝、母が90才で帰天した。2年前から肺癌を患ったが特に何の治療もせず、最後まで自然に任せて暮らした。お盆すぎに黄疸が出て9月になって入院、すい臓に転移していたが、最後まで少しずつ食べ、よくしゃべった。亡くなる前夜、3人の息子は病室に集合し、個室をいいことにして、痛み止めで意識もうろうとした母親のそばでこっそりノンアルコールビールと焼き鳥と巻きずしを持ち込んで、昔話に花を咲かせてワイワイやりながら食べた。母はちょっと笑ったような気がした。そして次の朝、静かに息を引き取った。やるべきことを全部やり遂げた人だった。今日はToussaint、万聖節。熱心なクリスチャンであった母は、きっと今頃聖人たちに混ぜてもらってご満悦のことであろう。

管啓次郎 詩集 犬探し/犬のパピルス

何人かの同僚に「あなたは犬派ですか?」と尋ねて「yes」と答えた人にこのすばらしい詩集を紹介してみた。そのときの犬派の人々が目を輝かせて犬への愛情を語る姿に驚いた。人の犬への情熱はなんと大きいのだろう。しばらくたって「どうでした?」と尋ねると、皆一様に冒頭の「犬探し」を絶賛した。「これ、強すぎる。痛いほどわかるんだよな、この気持ち」とある人は答えた。

君はマリンチェを乗せてマリンチェを探しにいくんだね。そして半世紀前に姿を消したパピルスが君の心に住んでいるんだね。見えないものの存在の重みを息づかせることがpoesyの使命。マリンチェとパピルスのあいだに広がる世界のなんと豊穣なことか。アポリネールの動物詩集を読みたくなった。サンタナハバナ・ムーンが聴きたくなった。(なんとも貧しいリアクションだ。)「ハバナ」がいいね。透き通った物憂げな黄昏がゆっくりと夜に向かうようだ。詩文の体裁を纏った批評も。切れ味鋭い「写真論」。

「おれの名はラザロ、ババルアエ、すべての弱者。そこでぶるぶる震えているくらいなら おまえも一緒に歩かないか。」ありがとう、それじゃぼくもちょっと離れて歩いていくよ。

恐竜博2019を見に行く

台風19号が通過し20以上の河川が氾濫した。日本各地に残されたその爪痕の映像にぼうぜんとしながら、上野の国立科学博物館に向かった。最終日とあって9時に到着したときには入場待ち時間90分とあったが実際は60分ちょっとで入ることができた。すごい人気である。子供連れの家族が多い。デイノケイルスの骨格展示はやはり迫力があった。Uもヘッドフォンガイドで熱心に見学していた。興味深いのはここ50年の恐竜研究の進歩。恐竜が体毛で覆われていたという発見や分類の新しい観点など、化石発掘調査の進展によって従来の通説がどんどん書き直されている。またこの展示は科学による事実解明だけで成立していない。CG技術による仮想映像の迫力がビジターを引き付ける大きな要素となっている。たとえば、もし恐竜が絶滅していなかったらどのように進化していたのかという仮説に基づくディノサウロイド(恐竜人間)のCG。さすがにこれは笑ったが、ちょっと待てよ、と考えさせられた。ここにはアート的な想像力が科学的思考に入り込んでいるのだ。こうした古生物学的展示は「科学」に属しているのだろうか? 会場内の随所に流れるCGによる映像はあくまで仮想世界。つまり、フィクションとノンフィクションの境が取り払われているのだ。証拠を提示する科学者の手続きとそれを解釈するアーティスト的想像力とが共同しつつ地質年代の世界を「翻訳」せんとする営為は、純粋な科学にも還元できずかといって純粋なアートでもないだろう。最近読んでいるブリュノ・ラトゥールの議論を思い出させる。

それにしても気の遠くなる過去だ。地球誕生が46~45憶年前、生物誕生が38億年前、メキシコ湾付近に落ちたとされる隕石によって恐竜が絶滅した白亜紀後期が6600万年前、ホモ・サピエンスの登場が20万年前…。こうした時間を目の当たりにするとき、自分が生きている時空って何なのかなあと思う。博物館とは、巨大な時間の流れと向き合う場所。