石田英敬先生最終講義

 午前中の授業を済ませて本郷へ。15時より福武ホールで石田先生の最終講義が始まった。今日のお話のなかではマラルメフロイトが大きなトポスである。マラルメは文字/記号が自動的に展開する現代のメディア状況を看破し、機械の無意識が人間に侵入する現代のわれわれの生活状況はフロイトにさかのぼって考察される。自走する記号と機械の無意識、ヒューマニティの根底に横たわるそうした「人間のゆらぎ」の基底条件の考察を無視してこれからの人文学はありえない、と石田先生は説かれた。

 寺山修司の「さらばハイセイコー」(泣けるね)をガイドにご自身の歩みを振り返ったお話は身の引き締まるドキュメントだった。配布されたふたつの論考「詩の言語と数の言語」と「〈情報記号論〉講義」によって、先生の研究の主題(記号学と情報学の接続)と実践をあらためて簡潔に辿ることができたのはありがたかった。90年代後半、言語情報の先生のゼミに参加し、「イジチュール」を自力で全訳してそこにデカルトの影を読み取ろうとした噴飯もののレポートを書いたことのある自分にとっては、前者の論考で言及されていた「社会のポイエーシス」の書籍化が待たれる。(まったく無関係にグリッサン/シャモワゾーらの「高度必需宣言」が頭をよぎる…。)詩学とポリティクスの接続を石田先生からぼくは学んだ。ゼミでの白熱した「君が代」議論も懐かしく思い出される。会場でデリダの『精神分析の抵抗』を頂いた。      

 祝賀会では久々にお会いした小野正嗣さんの洒脱なスピーチを楽しんだ。久々の「石田節」に勇気づけられて会場を後にする。ぼくも自分のできることにベストを尽くそう。数日後、ふたつの論考を熟読しているうちにフッサールをちゃんと読もうと思い立ち、田島節夫『フッサール』を久々にひっぱりだした。大きな船で大海を行くオデュッセイアの冒険譚を仰ぎ見ながら、一枚のレコードを聴くための無人島を探す崩壊寸前の筏の漂流は続く。