ダヴィッド・ジョップ詩集(中村隆之編訳、夜光社)を読む

詩(ポエジー)の振る舞いは多様だ。マラルメのように言葉自体への問いを前景化させる哲学的省察となることがある。ブルーズのように一人称をとりながら間主体的に民衆の生活を表出する歌となることがある。アフリカ人を両親にもち33才で早世したダヴィッド・ジョップの詩文は、文学として陰影豊かに躍動して読み手にストレートに届く(たとえば「すべてを失った者…」「欺く連中」)植民地支配への宣戦布告である。サンゴールが編纂した『ニグロ・マダガスカル新詩華集』(1948)に収められた5編に、唯一の詩集『杵つき』(1956)を収める。表紙のイラストがとてもよい。散文では「国民詩論争への寄与」がとりわけ興味深い。「詩とは、感受可能なものと知的把握可能なものとが調和的に融合したのであり、音と意味の組み合わせ、イメージ、リズムを通じて、詩人と彼を取り囲む世界との内的な結合を実現する能力である...詩は、生活の自然言語であるのだから、詩が現実と接触するかぎりにおいて湧き上がるのであり、刷新されるのである。詩は束縛や命令のもとでは死んでしまう。」(p.47)詩は民族(国民)のアイデンティティを支える役目を担うことがある。そのとき詩の振る舞いはどのようなかたちをとるべきか。ダヴィッドは「国民的性質」を特定の形式の使用に限定してしまうことを戒める。それは「国民的なもの」を無変化なもののように捉えてしまうことになりかねないからだ。このあたりはアラゴンを批判するセゼールの立場に与するダヴィッドの詩学の柔軟性がうかがえると思う。アフリカの詩人とは「みずからが抱えるあらゆる矛盾と未来への信念をもってアフリカの存在を肯定することで…われわれの国民的諸文化のルネッサンスに寄与する」者であり、詩とは「世界について省察し、アフリカの記憶を保持すること」である。ミアノの詩学の底流のひとつがここにあるだろう。

丁寧な解説と豊富な図版資料のついたすばらしい本である。それにしても、サンゴールの『ニグロ・マダガスカル…』の邦訳が望まれる。