中村隆之×管啓次郎×星埜守之 at Cafe Lavanderia

夕方、新宿三丁目へ。19時より『ダヴィッド・ジョップ詩集』、『第四世紀』出版記念のトーク、朗読、音楽の夕べ。中村さんが解説し、管さんが朗読し、星埜さん、管さんと出版社の方のギター演奏が加わるパフォーマンス。前半がジョップだが、その最後のセゼールに捧げられた「浮浪者ニグロ」が良かった。ああ、ダヴィッド、君は杵をつけたかい? ぼくらは君の声を聴いたよ。

後半がグリッサン。ついに、ついに管訳『第四世紀』が完成したのだった。グリッサンの呪術的テクストは見事に日本語に転写されたのだった。

「一人の黒人は一世紀だ」。~は1世紀だ、と言われるとき、そこにはストロングな時間が流れている。

音楽はテキストにぴたりと寄り添う。エフェクト豊かなギターと星埜さんのコラのような乾いたアコースティック・ギターの対比が効果的。管さんのギターの腕前を確認しました。

『第四世紀』の朗読は、アンヌによるリベルテ殺しの鬼気迫る場面もよかったが、何といっても、高揚感のあふれるあのエンディングの場面だ。フランス語のテクストと格闘していた頃を思い出した。

朗読と音楽のパフォーマンスを聴いていてふと思った。グリッサンの文学は「藪漕ぎ」なのだ。大学生の頃、ワンダーフォーゲル部に所属していたぼくは、夏合宿の山行で毎年1週間以上も道のない山を歩いた。その経験からぼくは自然のなかに入ることが何たるかを肌で理解した。その行為は生易しいものではなく、手頃な癒しでもない。グリッサンの文学は整備された都市空間を闊歩するものではない。道なき山を彷徨するような文学なのだ。