マルティン・ブーバーと猫

冬の季節になるとティーンエイジャーと読む英文のレベルが上がって、面白いものがちらほら現れる。一昨年はマイケル・ポランニーのPersonal Knowledge(1958)の序文の引用に出くわし、おお懐かしいと、ちくま文庫版『暗黙知の次元』を読み返したのだった。「暗黙知は、身体と事物の衝突から、その衝突の意味を包括=理解comprehendすることによって、周囲の世界を解釈する」(ちくま学芸文庫、85頁)。また暗黙知は存在を上位レベルへともたらすアクションすなわち創発emergenceを可能にする。暗黙知は解釈と創造の原動力なのだ。

昨年はおなじくユダヤ系のマルティン・ブーバーと再会した。こちらもなんとも懐かしい。岩波文庫版で『我と汝・対話』を40年ぶりに読み返した。相変わらず神父さんの説教のように〈われ-なんじ〉の関係の意義を切々と説くブーバーなのであった。言うまでもなく、ブーバーが根源語と呼ぶこの人称代名詞の対を発話行為のプロセスの基盤として取り上げたのがバンヴェニストであった(『一般言語学の諸問題』収録の「代名詞の性質」)。発話行為のプロセスのなかにしか定位しないje/tu。一人称と二人称の代名詞の使用は三人称代名詞が担う対象化をともなう指示行為とは別の局面にある。つまり、「私」と「あなた」の応酬は、対話という「いま・ここ」という生きた時空を成立させる。

だが〈なんじ〉への呼びかけはときとして肩透かしを食らわせられるだろう。〈なんじ〉との関係の儚さを、ブーバーは猫のまなざしを例に語る。「存在と現実のすべての関係のうつろいやすさ、われわれの喪失の崇高な悲哀、すべての孤立した〈なんじ〉が運命的に〈それ〉へ変容することなど、猫のまなざしほど深く感じさせるものは、いかなる言葉によっても不可能であるとわたしは思う。・・・わたしと猫の場合には、・・・輝かしい〈なんじ〉は現れて、すぐさま消えてしまう。」(岩波文庫p.123) 果たしてブーバーは猫派だったのか。

ブーバーの関係の哲学をグリッサンの関係の詩学と比べてみよう。もちろん両者のパースペクティヴは根本的に相いれない。「〈なんじ〉と呼びかける関係だけが、新たに神への展望を開くのである」(p.133)と説くブーバー神学において、神は絶対的な彼方にある他者ではなく常に人が呼びかける行為に位置する。一方、グリッサンはそもそも西欧思想の根源にある〈一者〉を告発し、批判する。奴隷船の船内の黒人たちのうめきを「根源」とするグリッサンの詩学には、神無き人間の悲惨を嘆く声はない。しかしアイデンティティをゆらぎとして捉えるグリッサンの確信――「それは、他者なるものとの関係へ、そして交換からもたらされる変化へとアイデンティティを開いていくが、しかしその際にアイデンティティに混乱がきたされることも歪められることもない」(『ラマンタンの入江』p.126)は、やはりコミュニケーションの力と可能性についてのポジティブな態度表明であると言えないだろうか。グリッサンの説くクレオール化とは強制移送された黒人奴隷の身体と環境との衝突からもたらされた。その衝突は創発を引き起こしたのである。暗黙知、とポランニーは言うが、クレオール化とは予測不可能なものだ、とグリッサンは言う。

いつも猫に追っかけられるネズミである僕の今年はさてどんな展開になるのやら。