陣野俊史『泥海』

しばらく前から読書会でご一緒するようになった陣野俊史さんの『泥海』を一気に読了した。ラトゥールの『世界戦争』の翻訳を終えたら読もうと心に決めていた一冊。理由は自分でもわからない。だがその直感は正しかった。何の予備知識もなしに読み始めるとまず『泥海』がイスラム過激派テロリストたちを主人公とする物語であることに意表をつかれた。本書が翻訳作品ではなく日本人による創作であることに驚いたばかりではない。9.11をどのように捉えるかという議論から説き起こされる『世界戦争』と偶然にもリンクしたからだ。

紙媒体での流通が中止されたMalika El Aroud, Les soldats de lumière, 2004『光の兵士たち』の一部抜粋を圧縮引用しそれをいわば前半のコアとして小説は2015年のシャルリーエブド襲撃事件へと流れ込むのだが、物語空間はアフガニスタンとパリの往還にとどまらない。日本でその事件のTV報道を見た日本人の「オレ」が、無差別殺人の起きた秋葉原に引き寄せられたあとパリに渡りその現場に引き寄せられテロリストの活動圏域に介入する。このパサージュ設定にふたたび意表をつかれる。強烈に印象的なのは第3部に入って「オレ」の出自が明かされ、「オレ」が諫早市出身であり、諫早湾干拓が語られたくだりである。ラトゥールの「アクターネットワーク論」を考えるときいつも諫早湾の「ムツゴロウ裁判」が頭の片隅から去らなかったので、はっとしたのだ。「オレ」は幼い頃その諫早湾の泥沼にはまり危うく命を落としそうになる。泥に沈んでゆく目線にハゼが見える。人間と非人間が同等になる瞬間である。

幼い「オレ」もイスラムのテロリストも、この小説の一人称はすべからく泥海にはまる。小説は世界の泥海から泥海へと渡ってゆく。なんということだろう。これはまったくグリッサンの小説『全‐世界』の語り口(渦から渦へと渡る)と同じではないか。はからずも『泥海』を介してぼくはラトゥールとグリッサンをつなぐパサージュをひとつ辿ったのだった。