プルースト読書会 vol.3

失われた時を求めて』読書会第3回。今日は第3巻『花咲く乙女たちのかげにⅠ』に収録された第2篇「花咲く乙女たちのかげに」第一部「スワン夫人をめぐって」を読む。スワンはオデットと結婚し、私とジルベルトの恋が描かれる。解説によれば時代設定は1896年前後だという。全体的な印象としてスワンの恋に比べて「私」の恋愛のほうが官能的に--それはジルベルトというよりもむしろオデットに対して--描かれているように思える。しかし何といってもインパクトがあったのは、「私」がラ・ベルマ演じる『フェードル』に失望するという冒頭のエピソード。初めての観劇を経験する小説家志望の「私」はいかなる「芸術との邂逅」を果たすのだろうかとわくわくしながら読んでいったら見事に肩透かしを食らわされた。なんだこの煮え切らない失望は。いや、私はラ・ベルマがどのようにフェードルを演じていたかを冷静に分析している。崇高な芸術の理想を抱いて対象に火だるまとなって倒れかかるロマン・ロランジャン・クリストフの対極に「私」は立っているのだ。なるほどなあ。もうひとつは271頁から288頁あたりまでに展開される「私」のベルゴット論。「私」のメンターともいえる小説家ベルゴットの話し言葉と創作における語り口の比較である。「ベルゴットの書物には、その発言よりはるかに多くの抑揚と口調が認められた。その口調が、文体の美しさとは独立したもので、おそらく語り手自身さえ気づいていないのではないかと思われるのは、この口調が語り手のきわめて内密な個性と不可分だからである。ベルゴットが書物のなかで完全な自然体になっているとき、書き記されたじつに無意味なことばにリズムを与えるのはこの口調だった。」(278頁)興味深い詩学的議論である。「私」はベルゴットの日常会話のリズムが作品の語り口のリズムと関係があることに注意を向ける。しかしそれは等価ではない。ベルゴットの会話にうかがえる独特の発声法はベルゴット家の家族固有というべき抑揚の変化であるが、そうした集団的な語りのリズムを「変形して移し替える能力」(281頁)によってベルゴットの文学は天才的作品となる。作家の独自性とはその生活環境自体ではなく、「その人生を鏡に映し出す...能力」(同頁)にある。プルーストのサント・ブーヴ批判に一脈通じるポイントかもしれない。そのあたりの問題はもう少し考えてみる必要があるだろう。それからジュネットFiction et dictionも脳裏に浮上した。再読してみるかな。