マイルス・デイヴィスのほうへ(1)キース・ジャレットがいた風景Ⅰ

昨年の暮れ頃からマイルス・デイヴィスを集中的に聴き始めた。かねてからキース・ジャレット在団中のマイルス・バンドの音楽の変化をじっくり追跡したいと思っていたのだが、キースが卒中で倒れ再起不能となっていたというNew York Timesの悲痛な記事が伝わったのは昨年の10月だった。

   https://www.nytimes.com/2020/10/21/arts/music/keith-jarrett-piano.html

CDとインターネットによってコアなキース・ジャレット・ファンに「秘境」が出現した。スタジオ録音を発表しなかった70~71年のマイルス・デイヴィス・バンドのライブ音源・映像である。なにしろ昔はMiles Davis At FilmoreLive Evilというテオ・マセロによってずたずたに編集されたレコードを聴くしかなかった。だがCDの到来によって、1970年6月17日~20日のN.Y.フィルモア・イースト、12月16日~19日のワシントン、セラー・ドアでの演奏がノーカットで聴けるようになり、その他多くの未発表ライブがYou Tube上にアップされるようになった。

とくにライブ・イヴィルの元音源であるセラー・ドア・ライブ6枚組が2005年の冬にリリースされたときの衝撃は大きかった。チック・コリア退団のあと、レコードではその片鱗しかわからなかったフェンダー・ローズとフェンダーのオルガンを直角に並べて弾くキースの長尺のソロの全貌がはじめて明らかになった。この頃のマイルス・バンドはファンクに傾斜する。快速調のDirectionsに始まり途中で速度を落とし、スロー・ブルースのHonky Tonkが続き、ふたたびWhat I Say やFunky Tonkで盛り上がりSanctuaryで神秘的に沈静する、といったように数曲のレパートリーを切れ目のない数十分のインプロヴィゼーション組曲としてステージは構成された。マイルス・バンドを退団したあとアコースティック・ピアノしか弾かないと宣言し、ソロ・ピアノの即興演奏へと向かったキースがいかに多くのアイディアをこのマイルス時代に発展させたかがよくわかる。

レパートリーといっても、その多くはアドリブを支える最低限の枠組みとしてベースのフィギュアとテンポなどが設定されているだけだ。顕著なメロディーがテーマとなっているのは、ジョー・ザヴィヌルの書いたDirectionsとウェイン・ショーターの書いたSanctuaryくらい。(それらはマイルス・デイビスが演奏する最後のジャズの痕跡である。)Funky Tonk (Inamorata)におけるマイケル・ヘンダーソンとキースによる例の「キメ」のフレーズはなんだかウィルソン・ピケットのLand of 1000 Dancesのパクリのような気がするし、ジミ・ヘンのPower To Loveのフレーズの借用(アダム・ホルツマンの指摘、たしかにそうだ)もうかがえる。即興演奏がこの「キメ」になだれ込むとボルテージは急上昇。チック・コリアになくキースにあるのがこのファンクである。セラー・ドアの2枚目(12月17日の2nd set)がぼくは大好きだ。インスピレーションにあふれている。In A Silent Wayに収録されたオリジナルの影も形もないIt's About That Timeにおけるキースのソロはグッとタメが効いていてコール&レスポンスを誘発する。デイヴ・ホランドの後釜にエレキ・ベースしか弾かない(弾けない)マイケル・ヘンダーソンを起用したことによって、マイルス・デイビスはジャズと決別したともいえるだろう。