「メヒコの衝撃」の衝撃

 
この状況で行こうか行くまいか迷った。だがティーンエイジャーと読んでいる岡本太郎物語、メキシコのホテルのロビーに飾るために制作された「明日への神話」はなぜあんなおどろおどろしい主題なのか、メキシコ人は「死者の日」になぜあんなに骸骨を露出させるのか、教室でそうした問いを立て、自分なりに答えを提示しなければならない。そのための手がかりを得る絶好の機会であることはまちがいない。意を決して車で出発。都内の高速はパラリンピックにともなう通行制限やら割り増し料金があるので敬遠し、川崎浮島まで一般道で2時間、そこから東京湾アクアライン圏央道経由1時間で市原湖畔美術館へ。がらんとしてだれもいない高滝湖PAでトイレ休憩を取っただけで目的地までひた走った。猛烈に暑い。途中外気温計は37℃まで跳ね上がった。

建物のなかに入ったとたん目に飛び込む作品群に圧倒された。ああ、来てよかった! まずはメキシコ史をおさらいしよう。紀元前5世紀から2000年間栄えたマヤ文明。14世紀に成立し200年続いたたアステカ帝国。16世紀から300年続いたスペイン植民地ヌエバエスパーニャ。入植者の非道はラス・カサス神父によって『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』で報告される。スペイン人との混血(メスティソ)が進行し、先住民の文化はキリスト教化とともに破壊されてゆく。1821年メキシコ独立。だが茨の道は続く。ディアス軍事独裁政権打倒と農地改革を叫ぶ民衆が蜂起したメキシコ革命1921年終結すると、アートの光が差してくる。リベラ、オロスコ、シケイロスらが牽引する壁画運動である。メキシコ・ルネサンスと呼ばれた、西欧美術の枠を逸脱し抑圧された過去を想起し主体を回復しようとするパワフルな民衆芸術運動。グリッサンの用語を借りてデムジュール!と叫びたくなるような、メキシコの土地に刻まれた重層的なアイデンティティの堆積が差し出すアートに共振した8人の日本人美術作家の作品展がこの「メヒコの衝撃」である。

メキシコ・ルネサンスのさなか、1936年から15年間メキシコに滞在した北川民次は、現地で制作しながら子供たちに美術を教え、帰国後も児童美術教育に関わった。1937年のテンペラ画「タスコの祭り」がすばらしい。

1955年、東京国立博物館で開催された「メキシコ展」が日本の若いアーティストに衝撃を与える。1930年代のパリ留学中にマルセル・モースから民族学を学びすでにメキシコと出会っていた岡本太郎は、利根山光人とともにメキシコを旅しアステカの神聖に魅せられ、利根山はマヤのレリーフ文様を拓本にとり作品化した。深沢幸雄の版画はメキシコ体験を経て鮮やかな色彩を獲得。丸みを帯びた不気味でかわいいフォルムを生み出す河原温もメキシコに大きな影響を受けたことを知った。水木しげるはメキシコの仮面を収集。そしてスズキコージの極彩色のエネルギー! 便座アートのなんとすばらしいこと。タブローにあふれる骸骨。ああそうなのだ。死と生が隣り合わせの祭り。だがなによりも、小田香の静謐な映像の圧倒的インパクトに、ぼくはメキシコにおける生と死の交錯を感覚として把握できた気がしたのだった。美しい。地上を水中を行き来するカメラ・アイは生と死の境界を行き来する。唯一のBGMである自身のシュノーケルのゴボゴボいう呼吸音が生のリズムを刻む。ボルタンスキーの心音を使ったインスタレーションを思い出す。メキシコ人の生に占める死の重みを、これら日本人のメヒコへの反応によって理解することができたのだった。

充実感に満たされて美術館を出て、近くのコンビニでサンドイッチと缶コーヒーを買って車中で食べ、往路をひたすた戻り、夕刻の渋滞に紛れた。翌日から、すかさずオクタビオ・パスの『孤独の迷宮』を読み始めた。