プルースト読書会 vol. 9


吉川一義岩波文庫版『失われた時を求めて』第9巻は「ソドムとゴモラ」後半を収める。訳者によれば、時代設定は、矛盾もあるが、前巻と同じく1899年頃であるという。舞台はノルマンディーのリゾート地。ヴェルデュラン夫妻がカンブルメール夫妻から借りた海を見下ろす別荘、ラ・ラスプリエールで催すサロン「少数精鋭」に出入りするいつものメンバー、モレル、シャルリュス男爵、コタール、ブリショ、サニエット・・・。海辺のローカル鉄道の描写が頻繁にあらわれ(なんだか機関車トーマスみたいだ)同じサロンに集う人々の物語であっても、場所がパリからノルマンディに移ると、全編にどこかくつろいだムードが漂っている。それにしてもソドム/シャルリュス、ゴモラ/アルベルチーヌというトピックを核に展開する本冊、いやあ長かった。アルベルチーヌをいったい愛しているのかいないのか、優柔不断の「私」は、さまざまな「格言」——たとえば176頁「人の命令に従うのをやめたときにつきまとうもの悲しさ。[・・・」命令に従っているときは、くる日もくる日も未来はわれわれの目に隠されているが、それをやめたとたん、ようやく人は本格的に大人として、人生を、めいめいの意のままになる唯一の人生を生きはじめるのである。」——を散りばめながら、果てしない紆余曲折の恋愛のディスクールを紡ぐのだった。

 印象的だったのは、移動にかかわる近代技術についての省察。「鉄道」の旅と「自動車」の旅の比較論である。「私」は夢想をさそう鉄道の旅を愛している。反面、「自動車というものは、いかなる神秘も尊重しない。」(348頁)「鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいたきながら運ばれるが、自動車はそんなことはしない。[・・・」自動車はまっすぐ垂直に襲いかかって、谷間の底の地面に横たわる町を捕まえる。その結果、行き先という唯一の地点も、自動車によって、急行列車ならではの神秘をはぎ取られたように見えるが、そのかわり自動車は、その目的地を発見させ、コンパスで測ったみたいにわれわれ自身でその位置を確定させ、列車の場合よりずっと入念な探検家の手つきで、はるかに精密な正確さでもって、正真正銘の幾何学、みごとな「土地の測量」を実感させてくれるように思われる。」(350~351頁)

 デルヴォーの夜汽車のような夢の旅、それと相反的な自動車による能率的な移動。だかプルーストはここで、自動車による移動が可能にするあらたなパースペクティヴに気づいている。たとえば、ティム・インゴルトが『ラインズ』のなかで、既定ルート上を輸送される移動transportと自由にうろつくこと・徒歩旅行wayfaringを対比させ、後者の発見的価値に注目したたように、ここでプルーストは旅行者の視点で自由に土地を測量し鉄道がもたらす夢想とは別のパースペクティヴを得る方法として自動車旅行を捉えているのだ。

 さらに言えば、「土地の測量」とは、ひょっとするとプルーストが詳細に展開する貴族サロンの描写についてもあてはまるのではないだろうか。吉田氏は解説で『失われた時を求めて』はアンチ・ロマンだと指摘されているが、アンチ・ロマンとは、従来の物語の旅とは別の旅の開拓であるとは言えまいか。そのディスクールとは、人間同士の関係を、自動車で旅する土地を走破するように精密に「測量」せんと試みるプルースト詩学の体現であるようにも思えるのだ。