セルバンテス『ドン・キホーテ』1

 明治大学管啓次郎研究室主催の長編小説輪読会(と勝手に名付けました)第二弾はセルバンテス! 20世紀初頭のフランスから17世紀初頭のスペインへとタイム・スリップである。『ドン・キホーテ』は児童書版で読んだきり。大人になってから一度会田由訳で挑戦し、挫折しているので、今回がんばろう。岩波文庫牛島信明訳は瑞々しく現代的で読みやすい。

 愛馬ロシナンテに跨がりサンチョ・パンサを従えたドン・キホーテの抱腹絶倒の珍道中を読み始めると、川崎のぼるの「いなかっぺ大将」を思い出した。柔道家を目指す大ちゃんこと風大左衛門が数々の失敗をやらかすのだが、小学生の頃、テレビを見ながらこの主人公はなんでこんなにまぬけなんだろうとギャグ漫画に腹をたてた。なぜか大ちゃんがラ・マンチャ郷士とかぶるのだった。

 騎士物語を読みすぎて「脳みそがからからに干からび、ついには正気を失ってしまった」(p.46)ドン・キホーテは「雲をつかむような絵空事が彼の想像力の首座を占め、その結果、騎士物語のなかの虚構はすべて本当にあったことである」(p.48)と信じる。田舎娘を勝手にドルシネア姫と決めつけ、風車に突撃し、行きずりの旅人に因縁をつけて次々にトラブルを起こすドン・キホーテを危険とみた家政婦や司祭はドン・キホーテの蔵書を焼こうと決意する。その蔵書のなかにセルバンテスの処女作『ラ・ガラテーア』が含まれているのが面白い。こうした自己言及性は、この作品が近代文学の端緒に置かれる理由のひとつとも言えようか。

 さて、家人による焚書坑儒を免れたのがドン・キホーテの崇拝する騎士アマディス・デ・ガウラを描いた『アマディス・デ・ガウラ 全4巻』。ドン・キホーテのみならず、司祭も床屋のニコラス親方もドン・キホーテの姪もこの書物をよく知っている。第6章で登場人物のあいだで展開される騎士物語論を読むと、『ドン・キホーテ』がひとつの騎士物語批評ともいうべき側面をもっていることが見えてくる。騎士道を全面的に受容する滑稽なドン・キホーテの時代錯誤的行動は、作者によって全面的に糾弾されているとも言えないだろう。「ドン・キホーテこそはわれらの時代、この嘆かわしい末世にあって、危険と苦難に満ちた遍歴の騎士道の実践に身を投じ、世の不正を取り除き、寡婦を助け、乙女たちを庇護せんとした最初の人物だったのである」(p.163)、と語り手は語る。

 それにしても、あと5巻あるこの書物はこれからどのように展開するのか。常軌を逸した遍歴の騎士の突撃が延々と続くのか。若干の不安も抱きつつ、2巻に進むことにしよう。

 それからもうひとつ。随所に挿入される図案のすばらしさにも触れておきたい。どうやらギュスターヴ・ドレの木版画らしいが、不思議なのは会田由訳のちくま文庫版の図案と微妙に違うのだ。この辺の事情も気になる。