セルバンテス『ドン・キホーテ』2

セルバンテス読書会第2回。『ドン・キホーテ』前篇第22章から第34章までを収める牛島信明岩波文庫版第2巻を読む。ドン・キホーテは果たして完全な狂人なのだろうか。そうとも言えまい。憂い顔の騎士は徹底的に狂人を、思い姫に恋焦がれる騎士を演じようとしているのだ。ドン・キホーテはサンチョに語る。「アマディスを真似て、ここで絶望のあまり激情の狂乱状態におちいった男を演じるつもりじゃ」(p.98)、と。「だから友のサンチョよ、わしがこれからやろうとする、いかにも稀有にして幸せな、前代未聞の模倣を思いとどまらせようとして無駄な時間を使ってはならぬ。そう、わしは狂人じゃ。」(p.99-100) 司祭はそうしたドン・キホーテの醒めた一面を見抜いている。「なるほど、この純真な郷士は話が彼の狂気にかかわることに及ぶやいなや愚にもつかないことをまくしたてますが、いったん話題がほかのことになると、実に理路整然たる話しぶりで、彼があらゆることに対して明敏な、そして穏健な判断力の持ち主であることを見せつけるのです。ですから、その狂気を触発する騎士道にふれない限り、彼のことをすぐれて理性的な教養人と思わない人はいないでしょうよ。」(p.264) ドン・キホーテは自分の想像界現実界とが齟齬を起こさぬ閾を冷静に画定している。その方法は、想像界の秩序が壊れそうになるとそれを「魔法」のせいにするというものだ。これによって彼の想像界現実界からの攻撃に耐える。だがその想像界が危機に瀕するときがある。たとえば、例の鞭打たれたところを救った少年(第1巻第4章)の逆襲である。「神かけてお願いしますが、遍歴の騎士さん、旦那が今度またおいらに出くわして、かりにおいらが八つ裂きにされているところを見たとしても、おいらを助けたり救ったりしねえで、どうかそのまま見殺しにしておくんなさい。その不幸だって、旦那に手出しされてこうむるはずの不幸に比べたら軽いはずだからね。そうさ、旦那も、この世に生まれた遍歴の騎士という騎士もみんな神様に呪われるがいいんだ。」(p.289) 騎士の正義的行動の無意味さを直接批判するこの少年の言葉は、どんな暴力にもましてドン・キホーテ想像界の土台を揺るがす痛烈な一撃と言えようか。

 『ドン・キホーテ』というフィクションは、ドン・キホーテ想像界の内部とその外部、というふたつのレベルで構成される。ドン・キホーテサンチョ・パンサの旅物語は無論その内部で展開する。騎士とのコミュニケーションは、いわばその劇場においてしか成立しない。たとえば司祭や床屋やドロテーアらは、ドン・キホーテを村に連れ戻すために、彼の想像界に参入してともに芝居を打たねばならない。それに対して、カルデニオやドロテアが語るエピソードはその想像界の外に位置する、いわば現実界である。それらのエピソードが構成する現実世界の層に、ドン・キホーテはかかわることができない。この小説の可笑しさのひとつは、さまざまなエピソードの現実界に位置する登場人物たちが、ドン・キホーテ想像界に役者ないしアバター(?)として参入するところにあるだろう。