セルバンテス『ドン・キホーテ』3

今日は牛島信明訳、岩波文庫版『ドン・キホーテ』第3巻を読む。前巻33章から本巻35章に挿入される小説「愚かなもの好きの話」が一読してなんとも居心地がよくなかった。アンセルモがなぜ親友ロターリオに自分の妻カミーラを誘惑させようとするのかが、よくわからないのだ。村上春樹の「イエスタデイ」やイヨネスコの不条理劇が脳裏をよぎる。だが物語は17世紀初頭だし、もう少しロターリオの情動の動機が説明されていてしかるべきではないか、と思ったのだ。議論のなかで、漱石の『こころ』などが持ち出されたが、うーん、あまりピンとこない。アンセルモとロターリオの同性愛的な関係(たとえば第2巻p.309「独身だったころ二人はその仲睦まじい交際によって《二人の親友》といううれしい異名まで得ていた」などなど)が想定され、その両者の緊密さがカミーラの対象化をもたらしているという指摘には、腑に落ちるところもあった。ある程度。

本巻で面白かったのは281頁から286頁、第47章の最後で聖堂参事会員が司祭を相手に開陳する美学談義。参事会員曰く、騎士道物語は社会にとって悪である。読者を教化しようとせず荒唐無稽で真実らしさに欠けるからだ。「要するに、嘘だらけの虚構がそれを読む人の理性と和合することが何よりも大切なんです」(283頁)。まさにバロック美学vs古典派美学の議論。騎士道物語批判は、真実らしさと道徳性の欠如に向けられる。ディドロの100年前にすでにこうした議論があったのだ。ただし聖堂参事会員は騎士道物語の擁護もする。「あれにも良いところはある、つまり、あれがすぐれた才知にとっては格好のジャンルであるという点だ、なぜなら、騎士道物語というゆったりとした広大な場にあっては、作家はなに憚ることなく、思う存分にペンを走らせることができるからだ。」(285頁)「ゆったりとした広大な場」という表現は、グリッサンの詩学を思い出させる。

ドン・キホーテ』における語りの構造はいささか込み入っている。アラビア人の史家シデ・ハメーテ・ベネンヘーリによるオリジナル・テキストがあり、それをムーア人スペイン語に翻訳し、その翻訳を語り手(セルバンテス)が読者に語る(第9章)、という重層性を内包しているのだ。テクスト成立に関するこうしたフィクショナルな翻訳的重層性に示唆されるアラブ、ベルベル、スペインを横断する文学空間の広大さの一方で、ドン・キホーテが恍惚として語る、騎士物語にあらわれる美しい森や野や泉の描写(322頁)は、たとえばクルツィウスが『ヨーロッパ文学とラテン中世』で指摘したヨーロッパ文学のトポスそのものではないだろうか。

ドン・キホーテ』の両義性。それは、憧憬としてのヨーロッパ文学のトポスとそれを逸脱するアラブ・ベルベル世界への拡張であり、テキストのさまざまなレベルにおいて見られるその両義性がこの作品のスケールの大きさを示しているように思われる。