セルバンテス『ドン・キホーテ』6(後篇三)

牛島信明岩波文庫版『ドン・キホーテ』読書会もついに最終回。最終巻にたどり着いた。ドン・キホーテの狂気は次第に弱まってゆく。物語には盗賊の頭ロケ・ギナールのような魅力的な人物が登場しドン・キホーテは脇に退く場面が多くなる。そして《銀月の騎士》(じつはサンソン・カラスコ)との一騎打ちに敗れてついに鎧を脱ぐ。サンチョを引き連れ意気消沈して故郷の村に戻るドン・キホーテのなんと哀れなこと(p.299、p.301の挿絵!)。まるで甲羅から引きずり出されたカメのようである(?)。熱病に冒されて死の床で「正気に戻り」敬虔なキリスト教徒として死んでゆく結末を寂しい限りという意見があいついだ。これでいいのかドン・キホーテよ。

だが、本巻の「ドン・キホーテ劇場」を支える重要人物ドン・アントニオが、ドン・キホーテを正気に戻し村に連れ戻そうとするサンソン・カラスコに向けて放った言葉を聞こう。「この世に二人といないあんなに愉快な狂人を正気に戻そうとして、あなたが世間の人びとかけた損害を神様がお赦しになりますように! ドン・キホーテが正気になって世にもたらすであろう利益なんぞ、彼の狂気沙汰がわれわれに与える喜びに比べたら物の数ではないってことが、あなたにはお分かりにならないんですか?」(287頁)。正気すなわち現実界を擁護するサンソン・カラスコに対して、ドン・アントニオはドン・キホーテの狂気すなわち想像界を決然と支持する。さらにこの支持表明によってあぶり出されるのは、芝居は観衆によって、小説は読者によって、すなわちフィクションはその享受者によって成立している、という構造である。『ドン・キホーテ』のメタ・フィクション性とはよく言われることだが、その射程は、こうしたフィクション構造への寿ぎにある、と僕は理解した。興行主ドン・アントニオはそのフィクション構造の価値を理解している。なぜならそれは狂気が許容されるかけがえのない場所だからなのだ。だからこそ彼は「ドン・キホーテ劇場」を立ち上げ、擁護するのだ。すなわち『ドン・キホーテ』は、ドン・キホーテの狂気を支持する読者を獲得する物語だったのだ。ドン・キホーテは実は勝利したのだ。

さて、憂い顔の騎士殿、6か月間楽しませてくれてありがとう。ここでさよならだ。名残惜しいけど、またの機会に。だって来月からはまた時を遡行してダンテ・アリギエーリに会わなくてはならないからね。おそらくそこで一気に視界が開けるような予感がする。