万聖節に

昨日の朝、母が90才で帰天した。2年前から肺癌を患ったが特に何の治療もせず、最後まで自然に任せて暮らした。お盆すぎに黄疸が出て9月になって入院、すい臓に転移していたが、最後まで少しずつ食べ、よくしゃべった。亡くなる前夜、3人の息子は病室に集合し、個室をいいことにして、痛み止めで意識もうろうとした母親のそばでこっそりノンアルコールビールと焼き鳥と巻きずしを持ち込んで、昔話に花を咲かせてワイワイやりながら食べた。母はちょっと笑ったような気がした。そして次の朝、静かに息を引き取った。やるべきことを全部やり遂げた人だった。今日はToussaint、万聖節。熱心なクリスチャンであった母は、きっと今頃聖人たちに混ぜてもらってご満悦のことであろう。

管啓次郎 詩集 犬探し/犬のパピルス

何人かの同僚に「あなたは犬派ですか?」と尋ねて「yes」と答えた人にこのすばらしい詩集を紹介してみた。そのときの犬派の人々が目を輝かせて犬への愛情を語る姿に驚いた。人の犬への情熱はなんと大きいのだろう。しばらくたって「どうでした?」と尋ねると、皆一様に冒頭の「犬探し」を絶賛した。「これ、強すぎる。痛いほどわかるんだよな、この気持ち」とある人は答えた。

君はマリンチェを乗せてマリンチェを探しにいくんだね。そして半世紀前に姿を消したパピルスが君の心に住んでいるんだね。見えないものの存在の重みを息づかせることがposeyの使命。マリンチェとパピルスのあいだに広がる世界のなんと豊穣なことか。アポリネールの動物詩集を読みたくなった。サンタナハバナ・ムーンが聴きたくなった。(なんとも貧しいリアクションだ。)「ハバナ」がいいね。透き通った物憂げな黄昏がゆっくりと夜に向かうようだ。詩文の体裁を纏った批評も。切れ味鋭い「写真論」。

「おれの名はラザロ、ババルアエ、すべての弱者。そこでぶるぶる震えているくらいなら おまえも一緒に歩かないか。」ありがとう、それじゃぼくもちょっと離れて歩いていくよ。

恐竜博2019を見に行く

台風19号が通過し20以上の河川が氾濫した。日本各地に残されたその爪痕の映像にぼうぜんとしながら、上野の国立科学博物館に向かった。最終日とあって9時に到着したときには入場待ち時間90分とあったが実際は60分ちょっとで入ることができた。すごい人気である。子供連れの家族が多い。デイノケイルスの骨格展示はやはり迫力があった。Uもヘッドフォンガイドで熱心に見学していた。興味深いのはここ50年の恐竜研究の進歩。恐竜が体毛で覆われていたという発見や分類の新しい観点など、化石発掘調査の進展によって従来の通説がどんどん書き直されている。またこの展示は科学による事実解明だけで成立していない。CG技術による仮想映像の迫力がビジターを引き付ける大きな要素となっている。たとえば、もし恐竜が絶滅していなかったらどのように進化していたのかという仮説に基づくディノサウロイド(恐竜人間)のCG。さすがにこれは笑ったが、ちょっと待てよ、と考えさせられた。ここにはアート的な想像力が科学的思考に入り込んでいるのだ。こうした古生物学的展示は「科学」に属しているのだろうか? 会場内の随所に流れるCGによる映像はあくまで仮想世界。つまり、フィクションとノンフィクションの境が取り払われているのだ。証拠を提示する科学者の手続きとそれを解釈するアーティスト的想像力とが共同しつつ地質年代の世界を「翻訳」せんとする営為は、純粋な科学にも還元できずかといって純粋なアートでもないだろう。最近読んでいるブリュノ・ラトゥールの議論を思い出させる。

それにしても気の遠くなる過去だ。地球誕生が46~45憶年前、生物誕生が38億年前、メキシコ湾付近に落ちたとされる隕石によって恐竜が絶滅した白亜紀後期が6600万年前、ホモ・サピエンスの登場が20万年前…。こうした時間を目の当たりにするとき、自分が生きている時空って何なのかなあと思う。博物館とは、巨大な時間の流れと向き合う場所。

 

 

管啓次郎『狂句集』(左右社)

風の強い小学校のグランドで息子のソフトボールの練習を見ながら読了。面白かった。読んでいるあいだに校庭の大木の大枝が折れて落ちてきた。

 

明解な満月狂気の鏡をひとつ割り

(シュール。)

らっこの毛皮がボディ無きまま踊ってゐる

アルトーかしら。)

「未開」といふが開けていいことあったのか

(ほんとですね。)

再起せよ世界はきみを待っているかも

(わはは。)

あいうえお順にならぶことばのインプロヴィゼーション。軽やかで広く、ときに深い。

あとがきを読んでひらめいた。

ドーレ、ドーミ、ドーファ、ドーソ…二音の音程をモチーフに即興できるな。意味はあとからついてくるのだ。やってみようか。あ、まずピアノの練習か。

 

 

西荻の小さなカフェで辻瞼展を見て

勤め先の秋の祭りが終わり、木曜なのに休日である。車で多摩地区をぐるぐる走って図書館のはしご。翻訳のチェックで必要なクルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』と新岩波哲学講座7をようやくゲット。その足で西荻のヨロコビtoカフェへ。「A little bit<lazy」辻瞼展を見る。キュクロプスかルドンの幻想画よろしき一つ目の女の子から凝視され、ぎくりとした。泣いている。苦しんでいる。ストレートな感情の表出。テクスト『天使のフン』を買って帰る。辻瞼の生んだ子供たちのことが書かれていた。とてもよい文章だ。文学が血となっている。飾りではない。「ジュネいいっすよ」といつか言われた言葉を思い出した。そのまんま、その先へ。

ボルタンスキー展にて

母親といっしょに国立新美術館に現れたUは不機嫌であった。夏休みがもうカウントダウンに入ったというのに宿題はなかなか終わない、それなのに突然父親の気まぐれで呼び出され、あの狭苦しい大江戸線に閉じ込められて六本木くんだりまで連れてこられたのだ。中学生ですか? あ、小6? 小学生は無料です、と告げる受付をぶすっとした表情のまますり抜けるようにして薄暗い展示会場に入ったUの足は、たちまちすくんだ。苦しそうにゲロを吐く音が聞こえてくる。どっちに行ったらいいのかわからない。父親から、この通路は生と死をつなぐ通路なんだよと聞かされて、ああなんかゲームみたいな感じね、となんとなくわかったような気がしたものの、やっぱり何だかわからない。短パンにクロックス、青いpumaのTシャツに黒い阪神帽をかぶった少年は、大人だらけの人ごみをかいくぐり、あっちこっちをふらふらと歩き回る。そのいかにも場違いな姿を会場内の係員はあきらかに不安そうな目で追っている。聖なる異空間に紛れ込んだ小さなエイリアンは、やがて心臓の鼓動が聞こえるブースに立ち止まり、じっとその音に耳を傾けた。しばらくすると「どんなのが好きなの?」と誰かに話しかけられた。振り向くと車椅子の女性がにこにこ微笑んでいる。「ぼくはこの心臓の音が面白いです。よく聴いていると、音が微妙に変わるから。あとはよくわかんないけど。」「そう、私はこの光が好き、」と女性は答えた。会場を出てピザを食べているとき、Uは父親にこの話をして、「おとうさんはどんなのがよかったの?」と尋ねた。父親は雪原に何本も棒が立っててひとつひとつの棒に小さな鈴がついてて風が吹くと一斉にそれが鳴る映像がよかったよと言うと、Uは「ふーん、でもあれって流れてくる音が変わんないよね」とつまらなそうに答えた。なるほど、ボルタンスキーが提示するおびただしい死と記憶の堆積のなかで、心音と明滅する光は命のメタファーなのだと父親はそのとき了解した。

              ★

会場の片隅に、ボルタンスキーがアニエス・ベーやH.ウルリッヒ・オブリストとともに1997年から刊行しているタブロイド版の冊子le point d'ironieの資料が展示されていた。ああ、そうだった、そのno.29がグリッサン特集号であることを思い出した。

中村隆之×管啓次郎×星埜守之 at Cafe Lavanderia

夕方、新宿三丁目へ。19時より『ダヴィッド・ジョップ詩集』、『第四世紀』出版記念のトーク、朗読、音楽の夕べ。中村さんが解説し、管さんが朗読し、星埜さん、管さんと出版社の方のギター演奏が加わるパフォーマンス。前半がジョップだが、その最後のセゼールに捧げられた「浮浪者ニグロ」が良かった。ああ、ダヴィッド、君は杵をつけたかい? ぼくらは君の声を聴いたよ。

後半がグリッサン。ついに、ついに管訳『第四世紀』が完成したのだった。グリッサンの呪術的テクストは見事に日本語に転写されたのだった。

「一人の黒人は一世紀だ」。~は1世紀だ、と言われるとき、そこにはストロングな時間が流れている。

音楽はテキストにぴたりと寄り添う。エフェクト豊かなギターと星埜さんのコラのような乾いたアコースティック・ギターの対比が効果的。管さんのギターの腕前を確認しました。

『第四世紀』の朗読は、アンヌによるリベルテ殺しの鬼気迫る場面もよかったが、何といっても、高揚感のあふれるあのエンディングの場面だ。フランス語のテクストと格闘していた頃を思い出した。

朗読と音楽のパフォーマンスを聴いていてふと思った。グリッサンの文学は「藪漕ぎ」なのだ。大学生の頃、ワンダーフォーゲル部に所属していたぼくは、夏合宿の山行で毎年1週間以上も道のない山を歩いた。その経験からぼくは自然のなかに入ることが何たるかを肌で理解した。その行為は生易しいものではなく、手頃な癒しでもない。グリッサンの文学は整備された都市空間を闊歩するものではない。道なき山を彷徨するような文学なのだ。