吉増剛造ナイト

 夕食後、妻の電動自転車を駆って意気揚々とポレポレ東中野へ。子供を乗せていなければアシストはほぼ不要である(坂でちょっと使ったが…)。21時、ついに吉増剛造との邂逅を果たす。7月30日〜8月19日にかけて行われる「予告する光」と題された吉松剛造全映像作品連続上演会。きょうは弁士としてご自身が登場された。すでに完成された映像作品上映と詩人によるトークというふたつの時間がポリフォニックに交錯する。作品は『千々に砕て――松島篇』(2006)、『熊野、梛の葉』(2006)、『奄美フィルム』(2007)、『奄美フィルム2』(2008)、『木浦』(2008)。本来は解像度をいかに上げて対象をクリアに再現するかという課題を目指して開発されたディジタル・ムービーなのに、吉増さんの映像では感度が下がり、映像はぶれる。そこに写しだされる対象は素材にすぎない。風景と機械のあいだに差し込まれる、宝貝やエロティックなオブジェや島尾敏雄南方熊楠のOHPシート...カセットから流れるデュラスの映画音楽やツェランの朗読やジョン・ケージの音楽。「映像」はそこに刷りこまれる詩人の経験と記憶の集積体に他ならない。ポエジーは文字や音楽や映像のあいだに立ち上がる。
 それにしてもなんという吉増さんのつぶやき。それは鳥のさえずりとなり、対話を誘発する。モノローグという言葉はあたらない。そもそもモノローグは存在しない。言葉はつねに投げかけられる言葉である。
 それにしてもすべてがなんと震えているのだろう。ひとつの場所が別の場所へと接続する。関係の詩学
 作品を前にする吉増剛造の声。作品がひとつのきっかけとなって生み出される新しい流れ。絶え間のないインプロヴィゼーション。奇蹟的な2時間。