サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』1~匂いのない読書

管啓次郎研究室主催、長編文学輪読会はインド亜大陸に上陸し、ポストコロニアル文学圏に接近してきた。作者サルマン・ラシュディボンベイ生まれのイギリス系アメリカ人。2022年の作家刺傷事件は記憶に新しい。インドについて皆目無知である自分は、インドとパキスタンの分離独立、カシミール問題、難民化するヒンドゥー教徒イスラム教徒やシク教徒など、大英帝国というコロニアル状況から脱出せんとする土地の受難を追跡しながら、知らない土地についての文学を読む苦労を味わった。嗅覚の優位が際立つテクストである。インドに旅行したことのある輪読会のメンバーが、読んでいるうちにストリートの匂いがよみがえってきた、と発言していた。うらやましいなあ。さまざまな芳香、雑多な匂いがたちこめているであろうその土地を旅したことのない僕にとって、この読書は無臭。それが辛いといえば辛い。チャツネを入れたカレーでも作ろうか。

 エログロナンセンスにあふれた饒舌な語り。トーマス・マンの重厚で端正な語りのあとで捧腹絶倒、荒唐無稽、大げさで騒々しいナラティヴと付き合うこととなったわけだが、小説の語りが相手にする時代状況は重い。その重さを現実と幻想の敷居を取っ払った奇想天外なファンタジーとして炸裂させるラシュディの語り口(魔術的リアリズムと呼ばれる)。その錯綜とした叙述を一読で咀嚼し俯瞰するのは僕には難しかったが。

3代に渡るムスリムの家系物語におけるキーワードは「鼻」と「匂い」。小説内で何度も言及される、象の頭をもつヒンドゥー教のガネシャ神。主人公サリーム・シナイはきゅうりのような巨大な鼻を持ち(その鼻は主人公の性的不能と相関があるだろう)、祖父アーダム・アジスもまた「シラノ鼻」の持ち主。ただしそこに血縁はない。サリームは生まれたときに「取り違えられた」子どもなのだ。インドが独立する1947年8月15日の真夜中に生まれた子供たちは特権的な存在であり、異形であり、異能である。

 上巻で印象的だったのは「全インド放送」の章である。9歳のサリーム・シナイは、他人の意識に入り込めるという不思議な能力を手に入れる。そして夥しい人々の意識のスクリーンに映し出される事柄を語る。「私は一種のラジオになったのだ」(376頁)。「つまり私はこんな気がしていたのだ、ぼくは世界を創造している。ぼくがとびこんでいった想念はぼくの想念になる。ぼくが取り憑いた肉体はぼくの思うように動く。日々のニュース、芸術、スポーツなど、一流のラジオ放送局の多様な番組がぼくのなかに流れ込んでくるとき、ぼくがどうしてかそれらを生起せしめているのだ」(396頁)。魔術的メディウム、DJサリーム・シナイの深夜放送を僕らは聴いているのだ。