言葉を移す、文化を映す――アフリカン文学をめぐって

国学院大学文学部のオンライン・コンフェランスを聴講した。非常に刺激的で情報量豊かなレクチャーだった。クッツェー翻訳、研究の第一人者であるくぼたのぞみさんは、アフリカを単一的に括るのではなく、つねに複数のアフリカをイメージすべきだと提言された。さまざまなアフロ・アメリカンやアフリカの作家を翻訳されたくぼたさんの言葉には迫力と説得力が満ちていた。(ああ、一度もアクセスできずにいるアディーチェ! まずは『アフリカにいる、きみ』からだ。ナイジェリアへトリップしよう。)一方、ブラック・ディアスポラの作家たちによって遠望される憧憬のアフリカも存在するだろう。たとえば中村隆之さんが紹介したダヴィッド・ジョップである。1960年に故郷セネガルに向かう飛行機の墜落事故で33年の生涯を終えた詩人は、アフリカに向けて「ぼくはお前を一度だって知ったことはなかった/だがぼくのまなざしはお前の血で満ちている」とうたった。そして、中村さんが朗読したグリッサンの『痕跡』の冒頭、ピタゴル・スラの口上には、不可能なアフリカを幻視しようとするカリブ海のアフリカ人末裔のおそるべき意志が溢れている。「なぜならわれわれは、自分たちの物語をうたうことも、石や木にその物語を刻むことも、一度だって始めたことがないからだ...」このあたり、「~でない」という否定文が連鎖する。そこにはアフリカへつながる圧倒的不可能性が示される。にもかかわらず語りは敢行される。圧倒的不可能性を提示しながら、それを語り続けるディスクールは可能性を拓こうとする。どうやって? 読者にそのテンションを伝染させることによって。わずかな朗読を聴くだけで、巨大なグリッサンのディスクールに圧倒され打ちひしがれた、久々に。中村さんによるマバンク『アフリカ文学講義』の翻訳も楽しみである。アチュベのすばらしい『崩れゆく絆』の翻訳者である粟原文子さんのレクチャーから、チゴズィエ・オビオマを知った。橋本智弘さんによる、今年のノーベル文学書を受賞したアブドゥルラザク・グルナのレクチャーも貴重であった。長編小説『別離の記憶』は作家の生まれ故郷であるタンザニアザンジバル島が舞台というが、この未知なる島に興味がわいた。アフリカとディアスポラのトポスを結ぶラインの束としての「アフリカン文学」。文学の世界認識地図はこのようにどんどん刷新されてゆくのだろう。