オクタビオ・パスとソル・ファナ

夏休みのメヒコ展のあとオクタビオ・パス『孤独の迷宮』を読んだ。記憶が風化する前に書き留めておく。メキシコという土地に去来した様々な民の関係のなんたる複雑さ。スペイン人の到来は、アステカの支配下にあった諸民族にとっては「解放」に見えたが、それは幻影だった。「メキシコが16世紀に誕生したとすれば、メキシコは帝国と統一という二重の暴力、すなわちアステカとスペイン人の暴力から生まれたというのがふさわしい。」(103頁)メキシコ人とは誰なのか? インディオ? クリオーリョ? メスティソ? それとも「アフリカ人」のように抽象的な概念なのか? 「メキシコ人はインディオにもスペイン人にもなりたくない。彼らの思想であることも望まない。彼らを否定する。そしてメスティソとしてではなく、人間であるという抽象として活気づくのである。無の子となる。彼は自分自身から始まるのである。」(88頁)。アメリカ合衆国に流れた「パチュコ」たちの浮遊感。一方では蜂起するサパティスタの掲げる起源への復帰。だがそれは可能なのか? 何が起源なのか? 「種の起源や、地上における我々の存在の意義に関する偉大な人類神話を検討すると...いずれの文化も、宇宙の秩序をその侵入者たる人間が破壊または侵害したという確信から発していることがわかる。人間が世界という引き締まった肉に与えた傷口、または「すき間」から、昔の状態、いうなれば、生の自然の状態である混沌が再び侵入するかもしれない。「古い原始の無秩序」への復帰は、すべての時代においてあらゆる意識に取りついている一種の脅迫である。」(18頁)孤独の迷宮の果てに見えてくる風景は何なのだろう。本書の最終章は「ピラミッドの批判」と題され、その章は次の一節で締めくくられる。「ソカロ、トラテロルコ、そして人類学博物館の描き出すメキシコに対して...批判することでそれに対抗しなければならない。...現代では、想像力が批判になる。...批判は、我々に偶像の溶解を学ばねばならぬという。我々自身の中で偶像を溶解するのである。そして我々は空気のようになり、自由に夢見ることを学びとらなければならない。」(303頁)。ここには比較詩学へのひとつのヒントがある。

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パスが紹介しているソル・ファナ(1651ー95)が気になって『知への賛歌 修道女ファナの手紙』(旦敬介訳 光文社古典新訳文庫)も読んでみた。17世紀後半、セルバンテスなきあとスペイン文学が停滞したといわれる時期に彗星のごとくあらわれたメキシコの美貌の修道女作家ソル・ファナ。繊細に分析される恋愛心理の襞と男性優位社会に肘鉄をくらわす力強さ(92番!)——もっとも文体の魅力は訳者の力であり、またこの本の面白さの半分は力のこもった訳者解説にある。だがソル・ファナは時代との格闘のなかで、志半ばにして筆を折る。「ソル・ファナの作品の中で植民地社会が表現され、肯定されているとすれば、彼女の沈黙のなかでその同じ社会が咎められているのである。」とパスは評した(121頁)