トーマス・マン『魔の山』(下)――華麗なるディスクールの饗宴

下巻に入って「キリスト教共産主義」ナフタと、「共和主義的資本主義者」セテンブリーニとの激しく錯乱的な批判合戦が展開するのだが、417頁に新たなディスクールの担い手がサナトリウムに登場する。メインへール・ペーペルコルンという、ジャヴァでコーヒー園を経営している年配の植民地オランダ人男性である。ショーシャ夫人がこの男性とともにサナトリウムに戻ってくることでハンス・カストルプは動揺するのだが、この人物の導入は、ベルク・ホーフという「世界」にとって、いかなる意味をもつのだろうか。博学で辺りを圧倒しカリスマ性を発散するこの大男はベルク・ホーフの風紀をかく乱する。その彼が薬学のうんちくを傾けてキニーネについて語る場面で次のような一節がある。「ペーペルコルンは非常に印象的に、いつもに似ず筋道をたてて、薬物と毒物とについて語った。」(485頁)ここでひとつの妄想が浮かぶ。PeeperkornはPharmakonではないのか? プラトンの『パイドロス』冒頭に登場するパルマケイアはニンフだがもともと泉の名でその水を飲む者は命を失った(岩波『プラトン全集第5巻』p.137訳注)。薬にして毒、両義的な性質を体現する「パルマコン」はのちにデリダが前景化する概念だが、独善的で強烈なペーペルコルンという人格はまさにパルマコン的存在であるように思われる。そして、植民地とはヨーロッパ世界におけるパルマコンであったと言えまいか。すなわちペーペルコルンとは、パルマコンという植民地ディスクールの体現者であるように思えるのだ。ベルク・ホーフというミニチュア「ヨーロッパ世界」にペーペルコルンをマッピングすることによって、植民地支配を礎とする近代ヨーロッパによる世界俯瞰図が完成する。

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 ところで、下巻でもっとも印象的だったのは、なんといっても256頁あたりから始まる、ハンスが夕刻スキーで遭難しかかる場面である。大学生だった頃、ワンダーフォーゲル部に入り山スキーに夢中になっていた僕は『魔の山』のこの雪山を彷徨する描写に深く心を惹かれた。その記憶がよみがえった。たとえば次の一節。「高所の純白からでて地面の純白に降り下ってくるいくつかのごく小さな切片のほかは、見渡すかぎり、まったくの無で、どこにも目に見えるものはなく、あたりの静寂は力強く無言だった。」(266頁)。冬山に足を踏み入れたことのある者ならば誰もがこの静寂の美を知っている。遭難の描写としてはやや観念的なところもある気がするが、スキーで山中を彷徨する一節は、山とスキーを知る者にとって実に魅力的だ。

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 久しぶりの再読で、若き日の自分の読解の稚拙さも確認された。ハンス・カストルプは夕刻吹雪のなかで遭難しかかって生還し、その体験からニーチェ的超人となって山を下るのだと思い込んでいたが(上巻の感想でもそんなことを書いた)、そんな単純な話ではなかった。716頁「立腹病」あたりから、サナトリウムには口論や諍いが蔓延する。それは平地で勃発する第一次世界大戦と呼応している。サナトリウムという「天上世界」は下の世界と連動しているのだ――「私たちの物語は、その内的性質からいって、その他の点でも、あれこれと童話に関係があるといっても差支えなかろう」という上巻10頁の「まえおき」の一節が思い浮ぶ(太字強調引用者)。サナトリウムの童話(あるいは寓話?)は当時のヨーロッパの激動を映し出している。ハンス・カストルプはその激流に巻き込まれ山を下りる。そして一兵士として背嚢を背負い戦場を行軍するところで物語はフェイドアウトしていく。ハンス・カストルプとは誰なのだろう。それは超人でもなんでもなく、病めるヨーロッパ自体の姿ではなかったか。『魔の山』はミシェル・フーコーの愛読書であったという。