プルースト読書会 vol.7

「喪に服したユダヤ人が頭に拝をかぶるようにしゃくりあげはじめた」(120頁)という一節にぎょっとした。ステルマリア夫人との逢瀬が叶わぬものとなった「私」が絶望する場面なのだが、つねにクールな語り手である「私」が示した感情の激発がいかにも唐突で奇妙に思えたのだ。そして一瞬ののち、自分がいかに単純な「一人称小説」というナラトロジー的構図を前提としてこの小説を読んできたかということに気づいた。つまり、小説内で「私」と名指される登場人物と、語り手の「私」とはじつは等価ではないのだ。語り手/書き手である「私」は、語られる/書かれる「私」と距離がある。その距離感において、「語る私」は「語られる私」から優位に立ち、「語られる私」は他の登場人物とともに「語る私」の材料となり、後者は前者との距離感を自在に操る自由を確保している(その自由において、物語描写と批評を行き来するディスクールの巨大な射程が成立している)。両者は一見なめらかにつながっているように見えて、ときとして突然に乖離する。かの一節は、その両者の乖離が露呈する亀裂であると言えまいか。

失われた時を求めて岩波文庫版第7巻(吉川一義訳)は、第三篇「ゲルマントのほう」後半を収める。本巻の中心はゲルマント侯爵邸での晩餐会。大貴族のサロンに出入りする上流階級の人間模様が描かれる。さまざまな貴族の名前は、それぞれが土地に立脚する家系のなかに浮上する集合体である。そうした社交界を報告するレポーターに徹する「私」は、その責務にうんざりしてもいるようだ。「というのも社交時の私は、私の皮膚や、きちんと整えられた髪や、シャツの胸当てなどのなかに棲息していて、私が人生の楽しみとするものをなんら味わえなかったからである。」(406頁)あるいは「晩餐の席は退屈だが、それは想像力が介在しないからであり、本を読むと楽しいのはそこに想像力が伴うからである。」(496頁)だがその「私」もシャルリュス男爵のヒステリックな怒りに巻き込まれて退屈どころではなくなる場面もあり、このあたりはスリリングな筋の展開があって面白い。

パルム大公妃の名から一度も行ったことのないパルムが想起され、また無数のスミレの香りを感じる場面(189頁)はいかにもプルースト。パルムという文学的トポスが強烈に立ち上がる。『パルムの僧院』を久しぶりに読み直そうか。

126頁に、こんなフレーズがあった。「かくして失われた時は、たまにしか見いだされなくとも存在しつづけている典型的な幸福のなかに伸び広がっている。」まさに小説全体のキャッチコピーのようだ。