マイルス・デイヴィスのほうへ(5)チック・コリアという繊細さ Ⅲ

しかし1970年の5月頃、マイルスは新たなキーボード奏者をスタジオに呼び寄せる。キース・ジャレットである。そして7月、NYのフィルモア・イーストマイルス・デイヴィスはチックとキースのダブル・キーボードを従えて4日間のパフォーマンスを行う。LP2枚組のMiles Davis At Fillmoreではその一部分しか聴けなかったが、CD化で4夜の全貌が明らかになった。2014年に出たオフィシャル音源による4枚組では、ステージ左にキースのオルガン、右にチックのフェンダー・ローズという配置だったもかかわらず、スピーカーからは逆の位相で聴こえてくる。まあ僕は気にならないけど。2台のキーボードの分離はよく、両者の手に汗握るバトルが堪能できる。初日水曜日のステージでは、最初のDirectionsでリング・モジュレーターを駆使してピッチを変調させ歪ませるチックのフェンダー・ローズに対して、タッチ・レスポンスもなく表現力では一歩劣るフェンダー・コンボ・オルガンで勝負を挑むキースとの掛け合いがスリリング。この頃サックスはスティーブ・グロスマンになり、コルトレーン的なソロを展開。次のMaskはキースのフリー・インプロヴィゼーションのショーケースであり後半スローな2ビートのアンサンブルとなる。翌日、木曜日のパフォーマンスがもっとも落ち着いていて創意にあふれている。Directionsではテーマのメロディとアドリブの掛け合いのバランスが絶妙でメンバー同士がよく聴き合い相互に触発されている様子がわかる。It's About That Timeではキースのリズム・ギターのようなカッティングがドライブ感をあおる。そこに乗っかるチックのラインがマイルスのソロと絡み合い、ホランドによるオリジナルのベース・パターン上でグロスマンのソロが展開。みんな自由にやりながら、なんとタイトにまとまっていることだろう! 4日間のステージで随所に聴かれるチックとキースによるノイジーな電子音の応酬はまるで一昔前のゲーセンにいるような雰囲気である。だがキースがバンドに加入したことでチック・コリアの心は穏やかではなかった。マイルスは僕が要らなくなったのだろう、と彼は思った。

1970年8月29日、マイルス・デイヴィス・バンドは60万人の観衆を集めたワイト島ミュージック・フェスティバルに出演する。この殺気だった37分間の演奏にはCall It Anythingというタイトルが与えられているが、内容はDirections→Bitches Brew→It's About That Time→Sanctuary→Spanish Keyのメドレー。Spanish Keyに移って間もなく、もういいだろうという感じでマイルスはぶっきらぼうに演奏を終了し、さっさと引き上げる。チック・コリアは『ジャズ批評222号』に掲載されたインタビューで、この日、出演者のなかにマイルス・バンドの音楽に対して批判的なミュージシャンたちがいて険悪なムードが漂っていたと明かしている。DVDを見ると、チックはホーナーのエレピにリング・モジュレーターを組み合わせている。キースは何とも迫力に欠けるRMIのオルガンを一生懸命弾いている。チックはこのステージを最後にデイブ・ホランドとともにマイルスの許を去り、フリー・ジャズを発展させた自身のバンド「サークル」での活動に専念することになる。

このワイト島ライブにはジミ・ヘンドリクスも出演していた。この頃マイルスとジミはお互いに急接近していた。だが交通渋滞で両者はすれ違ってしまう。そしてその18日後、ジミはこの世を去る。もしもジミがマイルスと共演していたら...とはよく言われてきたが(この辺は中山康樹の労作『マイルス・デイヴィスジミ・ヘンドリクス』に詳しい)、マイルスが欲しかったジミ・ヘン的エネルギーは、キース・ジャレットが充当したのではないかと僕はおもう。チック・コリアという知的な繊細さに対してキース・ジャレットの天使的凶暴性はマイルス・バンドを新しいファンクの局面へと導いていったのだった。