プルースト読書会 vol. 8


「ソドムとゴモラ」の前半を収める吉川一義訳『失われた時を求めて』第8巻(岩波文庫)の前半では主にゲルマント大公邸での夜会の様子が語られる。本巻でも社交サロン・レポーターの「私」による圧倒的な報告が展開するが、話題がシャルリュス男爵、スワン、アルベルチーヌにフォーカスされる分、前巻で開陳されたおびただしい貴族系図の洪水から解放されて、ややほっとする。「それはひとりの女だったからだ!」(27頁)と暴露される男爵の、仕立屋ジュピアンとの同性愛の現場をのぞく「私」の筆はユダヤ人/同性愛者という社会のマイノリティの問題へと踏み込み(52頁)古代ギリシャを想起しつつ「同性愛が正常な状態であったときには異常な者は存在しなかった・・・ことには思い至らない」社会状況を告発する(54頁)。マルハナバチとランが引き合いに出される同性愛の記述にはダーウィンメーテルランクなど自然科学や博物学ディスクールが影響している。

プルーストのテクストには自動車、電話、飛行機など当時の最新技術が随所に登場するが、297頁でアルベルチーヌと電話で話す「私」は、電話越しに背景に聞こえる自動車のクラクションや楽隊の音楽について「私に聞こえてくるさまざまな音は、アルベルチーヌの耳にも届いてその注意力を妨げているはずで、その音は本題とは無関係な、それ自体としては無用の細部でありながら、明らかに奇跡の生じたことを示すにはどうしても必要な本物の細部であり・・・」と語る。一瞬にして距離を消失させ異なる空間を接続する電話というメディアへのみずみずしい驚き。

失われた時を求めて』の多くを占める社交界のレポートは、閉じたサロンの社交人の生態を描きながら、それが社会を映し出す鏡であり、動的なものであることをプルーストは強調する。「社交界のさまざまな動向は・・・やはりこうした広範な動きの、遠い、屈折した、不確かな、ぼやけた、移ろいやすい反映なのである。したがってサロンなるものも、静止した不動の状態で描くわけにはゆかない」(317頁)。文学は社会をあぶりだす。

舞台をバルベックに移し、祖母の思い出が語られる本巻後半の「心の間歇」は印象深い

。訳者解説によれば、無意志的記憶をあらわす「心の間歇」はプルーストが「失われた時を求めて」の総題にしようと考えていた概念であるという。バルベックで、今は亡き祖母に対する母の悲嘆を目にして私はたじろぐ。そこに母ではなく祖母の面影をみてとったからである。「生者はしばしば死者にとり憑かれ、死者とそっくりの後継者となって死者のとぎれた生を継承するのだ。」(378頁)「死は無駄ではなく、死者は依然としてわれわれに働きかけている」(379頁)。母の正真正銘の悲嘆と「私の悲嘆のように、なんといっても一時的で、到来するのも遅ければ立ち去るのも早い悲嘆、そのできごとからずいぶん時を経てそれを真に「理解する」のでなければ感じることもできない悲嘆とのあいだには、大きな隔たりがあるのだ。私と同じように多くの人が感じる悲嘆とはそのようなもので、現在の私をさいなむ悲嘆がそれと異なるのは、この悲嘆が無意志的回想によってもたらされた点だけである。」(376頁)。サロン・レポーターとは別の「私」のアスペクトがここにある。プルーストはこうした無意志的記憶に光をあて、語りつづけるのだ。

祖母の夢をみる私の錯乱的なディスクール(400頁)は美しい。バルベックの植物相floreとしてアルベルチーヌや花咲く乙女たちが想起される場面を閉じる、リンゴの木々の描写もまた美しい美しい余韻を残す。「やがて太陽の光線にかわって不意に雨脚があらわれ、あたり一面に筋目をつけ、その灰色の網のなかに列をなすリンゴの木々を閉じこめた。しかしその木々は、降りそそぐ驟雨のなか、凍てつくほど冷たくなった風に打たれながら、花盛りのバラ色の美しさをなおも掲げつづけていた。春の一日のことである。」(496頁)