プルースト読書会 vol.2

吉川一義訳『失われた時を求めて』読書会第2回。きょうは第2巻『スワン家のほうへⅡ』に収録された第1篇「スワン家のほうへ」第二部「スワンの恋」と第三部「土地の名-名」についてのディスカッション。

第二部「スワンの恋」は粋筋の女性オデットに恋い焦がれる中年男スワンの話。しみじみと読む。訳者解説によれば、1870~80年代初頭頃の設定で第一部「コンブレー」より時間を遡る。ドイツではワーグナーバイロイトの聖地を打ち立てフランスではワーグナー熱/コンプレックスが広がった時代だ。プルーストのテクストにもワグナーへの言及にあふれている。それにしても奇妙な「恋愛小説」だと思った。音楽やボッティチェリなどのルネサンス絵画といった芸術形象がオデットへの恋慕や官能を掻き立てる触媒となってスワンの個人的な恋愛が語られているのか、それともオデットとの恋愛がきっかけとなって芸術作品の賛美へ昇華していく美学的ディスクールなのか、一向に焦点が定まらないようにみえるのだ。それは小説と芸術論を一緒に提示しようとするプルーストの意図のあらわれなのかもしれない。また、泥沼化する恋愛感情の吐露へと語りが収束するのを妨げているのは、語りの主体が当事者スワンではなく、回想的にスワンの物語を語る「私」の冷静な介入によるところも大きいのかもしれない。以上はプルースト初心者の稚拙な感想。

さて「スワンの恋」からの今回のワン・フレーズはこれ。「まず孤独なピアノが、伴侶に見捨てられた小鳥のように不満を訴える。それをヴァイオリンが聞きつけ、隣の木からさえずるように答える。」(361頁)ヴァントゥイユのヴァイオリン・ソナタの一節の印象を描く文章だが、これを読んだとき、あ、ひょっとしてフランクのヴァイオリン・ソナタ第1楽章冒頭かなと思ったのだが、註に引用されたプルーストのコメントによるとドンピシャで嬉しかった。もっともこの架空の作品のイメージはフランクだけでなくサン・サーンスやワグナーの音楽からの印象の複合体であるらしく、そもそも架空の作品の指示対象探しにあまり意味はないだろうが。それにしても全篇に強迫的に反復される「ヴァントゥイユのソナタの小楽節」は重要なモチーフである。ここでプルーストは音楽を独立した構造体として批評しようとはしていない。「目の前にあるのは、もはや純粋な音楽ではなく、どちらかというと素描であり、建築であり、思考であり、つまるところ音楽を思い出させてくれるものである。」(67頁)小楽節はマドレーヌのような想起の触媒として燦然と輝くのであり、恋愛と芸術のはざまにゆらゆらと立ちあがるポエジーの核とでも言えるものなのだろう。

第三部「土地の名-名」で印象に残ったのは、1時22分の汽車(437頁)に乗ってノルマンディやブルターニュの美しい町を旅したい、というところ。ブルターニュの地名が醸し出すポエジー。「ポン=タヴェンは、軽いかぶりものの縁が白とバラ色に舞い上がり、それが運河の緑の水面にゆらゆらと映っている。カンペルレといえば、もっとしっかり、しかも中世このかた多くの小川のあいだに固定され、そのあいだをさらさらと流れては真珠(ペルル)のような小さな飛沫を集めて一幅の灰色淡彩画(グリザイユ)を形成する。」(438頁)。ぼくはカンペルレをカンペールと読み間違えた。30年前に訪れたカンペールやコンカルノーといったフィニステールの町や港を思い出していたのだ。「その名前がいまも私の欲望を磁石のように惹きつけるのは、たしかに想像力が憧れはしたものの感覚として不完全にしか感知できずその場でなんら楽しめなかったものを、名前と言う安全地帯に貯蔵し、さらにそこに夢想も蓄えたからにほかならない。」(同頁)そのカンペールの街中の通りで、小さなアンプに腰かけてそれにつないだアイリッシュハープを弾くミュージシャンに出会ったとき、ああケルト文化圏に来たんだと感動したことを覚えている。

読書会のなかで「1時22分の汽車」とは昼か真夜中かどちらだろうと話題になった。おそらく昼なのだろう。でもぼくの脳裏には真夜中のパリを出発するイメージが浮かんだ。ポール・デルヴォーの描く夜汽車の風景である。