プルースト読書会 vol.6

吉川訳岩波文庫版『失われた時を求めて』第5、第6、第7巻は長大な第三篇「ゲルマントのほう」を収める。今日は第6巻。前半三分の二を占める「ゲルマントのほう1(承前)」ではヴィルパリジ侯爵夫人のサロンが、残り三分の一を占める「ゲルマントのほう2」では祖母の死が語られる。延々と続く上流貴族社会の描写においては、主客のあわいに立ち上がるプルースト的なポエジーは影をひそめ、リアリズム小説を読んでいる感覚を覚える。印象に残るのは、たとえば祖母の変調を描く場面にあらわれる「さきほど軽い発作をおこしていたのである。」(311頁)といった何の変哲のない短文である。そのインパクトはことばの彩ではなく、報告されるざらっとした現実がもたらすものといえる。

ドレフュス事件というリトマス試験紙に対する貴族やブルジョワの反応が細かく観察されるのだが、なぜか肝心のゲルマント侯爵夫人についての印象が薄い。ヴィルパリジ侯爵夫人に対してルグランダンが「ラ・ロシュフーコーの再来ではと考えておりまして」とおべっかを使う一節がふと目に留まり『箴言集』を読み始めた。あっちこっちに関心が逸れていく読書の楽しみ。

サロン社会の軽薄さと祖母の死という厳粛な現実――こちらには病魔に冒されてゆく祖母の現実を見据えるなかに吹き上がるポエジーがある(たとえば「私のそばにいたにもかかわらず祖母は、見知らぬ世界に投げ込まれ、すでにそこで死の打撃を食らい、さきほど私がその傷痕をシャンゼリゼで目撃したように、帽子も、顔も、コートも、祖母が格闘した目に見えぬ天使の手でかき乱されていた」319頁。このあたりの切迫したパッセージを読みながら僕にはシューベルトの『魔王』が聴こえてくる・・・)――このふたつの世界を結ぶのが公衆トイレの番人「侯爵夫人」であろう。体調を崩した祖母を公衆トイレに連れて行くときに出会う「侯爵夫人」の姿こそ、サロン社会の戯画であるように思えた。

もうひとつ面白かったのが、「私」がかつて崇拝していたベルゴットを次のように批判する一節。「その文章は私の目には、自分自身の考えや、自室の家具や、通りを走る車などと同じように明快であった。そこでは万事が一目瞭然で、それまで見ていたようには見えなくとも、今それを見慣れているがままに見える。」(339頁)「私」はベルゴットの明快さが陳腐に見えてきたのだ。いまや「私」の関心は「ある新進作家」へ向かう。「私」はまだその斬新さについていけずよく理解できないが、その独創性を評価する。「独創的な新しい作家はだれしも、それに先立つ独創的な作家を乗り越えて進歩しているように見える。」(343頁)。ここでプルーストは直線的な文学進歩史観に立っていると考えるのはあまりにも単純だろうが、この新進作家が気になった。注によればその作家はジャン・ジロドゥー。ジロドゥーの戯曲は読んだ記憶がない。読んでみよう。