プルースト読書会 vol.14

岩波文庫版、吉川一義訳『失われた時を求めて』第14巻「見いだされた時Ⅱ」。ついに最終巻に辿り着いた。感無量である。療養生活のあと20年近く経ってから久しぶりにゲルマント大公のサロンに足を向けた「私」が目の当たりにしたのは、老いて変わり果てた社交貴族たちの姿だった。「そこでは誇り高い貴族も、晩年にはまるで古着屋のように戯画化されて描かれるのである。」(35頁)読み手の僕自身も老境に差し掛かった今、老人たちのシニカルな描写はいささかリアルで身に染みる。

社交界の人生を振り返りながら、「私」はついに小説を書く決意を表明する。「私が書かなければならないのは、べつのもの、もっと長いもの、もっと多くの人に宛てたものである。」(292頁)。「私」が書こうとする作品は何なのだろうか? それはこの『失われた時を求めて』だったのか? かくしてわれわれは第1巻に連れ戻され、読書は円環のうちに閉じるのだろうか? だが別の作品が想定されているようにも思える。それはどのようなものか。

次の一節に出くわしたとき、ドキリとした。「私は自分の書物のことをもっと謙虚に考えている。その書物を読んでくれる人たちのことを想定して私の読者と言うなら、それは正確を欠くことになるだろう。なぜならその人たちは、私の考えでは、私の読者ではなく、自分自身の読者だからである。私の書物は、コンブレーのメガネ屋が客に差しだすレンズと同じく一種の拡大鏡にすぎず、私はその人たちに私の書物という自分自身を読むための手立てを提供しているにすぎないからだ。」(269頁)。

なぜドキリとしたかといえば、昨年の1月、第1巻のコメントのなかで(プルースト読書会 vol.1)「プルーストを読むという行為は、読者自身の人生にプルースト的想起を促すように思われる。そうして想起されるものを書き留めること、それこそがプルーストを読む究極の意味である、などと気障なことを言ってみたくなる。」と書いたのをここで思い出したからだ。あてずっぽうな物言いもあながち的外れではなかったのかもしれない。意図的な誤読を遂行しよう。この269頁の引用部において、プルーストは読者を煽動している、自分の書物を書くべきだと。すなわち、想定される別の作品とは、間主体化した「私」によって書かれる作品だとは言えまいか。

マラルメは世界を一冊の本にしようとした。プルーストにとって一冊の本は間主体化した「私」によって無限に開かれる。「要するに人生がひとつの書物のなかに実現される、そんなふうに感じられる今、私にとって人生はなんといっそう生きるに値するものと思われることだろう! そんな書物を書くことのできる人はなんと幸せなことだろう!と私は考えた。」(267頁)もちろんこの一節は「私」が作家にならんとする自分自身に向けて発している言葉なのだが、それは読者自身にプルースト的想起を煽っているようにも聞こえるのだ。

さて、『失われた時を求めて』をこれからどうしようか。再読しようか。へたくそな「作品」を書こうか。そうだな、一番気に入ったのは第1巻と第2巻だったから、とりあえず管啓次郎先生に勧められたFolio版のDu côté de chez Swannを読むことを宿題としよう。