プルースト読書会 vol.10

吉川一義訳『失われた時を求めて』第10巻(岩波文庫)は第5篇「囚われの女」の前半を収める。同性愛疑惑から遮断するためにアルベルチーヌをパリの自宅にいわば監禁する「私」は、恋人が誰かと交際しているのではと疑っては苦痛に苛まれ、恋人が不在のときには恋人に憧れ、そばにいるときは幻滅する。「苦しむのをやめるか、愛するのをやめるか、どちらかを選ばなくてはなるまい」(229頁)と果てしなく逡巡し、振り子のように揺れる恋愛感情の振幅を飽くことなく記述し続ける作家の執念には感嘆するほかない。「私」の心理的エネルギーの根底にあるのは「嫉妬」である。

社交界から隔絶した恋人との生活のなかで研ぎ澄まされていくのは、心理の変化がいかに外界からの些細な刺激に左右され、それが外界の認識を形成していくかという事態の認識である。「私がとりわけ自分自身の内部で陶然として聞いたのは、内心のヴァイオリンが奏でる新たな音である。外の温度や光が異なるだけで、締まったり緩んだりする。[...]私にとっては、外部に由来するものであるとはいえ、このような内心の変化だけが外界を新たなものにしてくれるのである。」(55頁)。

だがそのように「私」の心理の襞を忠実にトレースしようと腐心するディスクールは、アルベルチーヌの実存に接近することはない。アルベルチーヌには、たとえばジャン・アヌイの『野生の女』のテレーズのように自らの実存を賭けて発話するチャンスは与えられない。「そもそもアルベルチーヌといい、アンドレといい、その実態は何なのか? それを知るためには、乙女たちよ、きみたちを固定しなければなるまい。」(139頁)と「私」が語る時、恋人は「私」の欲望/所有の対象以外の位置にはない。

固定されたアルベルチーヌとは、その寝姿であるのだろう。「アルベルチーヌが不在のときにしか夢見る能力を発揮できずにいた私も、睡眠中に植物と化したようなアルベルチーヌのそばにいるときにはその能力をとり戻すことができた。[...]いまやアルベルチーヌのなかに息づいているのは、植物に宿るような、木々に宿るような意識のない生命で、私の生命とはずいぶんかけ離れた、はるかに奇妙な生命でありながら、それでいていっそう私のものとなる生命である。」(151頁)

そうした延々と続くモノローグのなかで面白かったのが、部屋に聞こえてくる通りのさまざまな物売りの掛け声の記述である。(250頁以下)訳註に掲載された物売りの写真や物売りの歌声の楽譜も実に興味深い。ジョルジュ・カストネルの『パリの声』を読んでみたくなった。一方、マリネッティらのイタリア「未来派」への批判も興味深かった。