プルースト読書会vol.12

吉川一義岩波文庫版『失われた時を求めて』第12巻は第6篇「消え去ったアルベルチーヌ」を収める。パリから出奔したアルベルチーヌの突然の死というプロット展開にはいささかの違和感(都合がよすぎる展開?)を禁じ得なかったが、時間とともに恋人を忘却してゆく「私」の心の変化が克明に記述される本巻の印象は圧倒的である。その過程は直線的ではなく追慕と忘却のあいだを激しく揺れる。その揺れを語る「私は単一の人間ではなく、刻々と変わる混成部隊の分列行進のようなもので、そのなかには時によって何人もの情熱漢が存在したり、冷淡な男が存在したり、嫉妬ぶかい男が存在したりした」(167頁)。一人の恋人を忘し別の恋人に心惹かれるわれわれは「交換用自我」(392頁)をもっているのであり、「他者にたいするわれわれの愛情が衰えるのは、その他者が死んだからではなく、われわれ自身が死ぬからである。」(393頁)。この心理的リアリズムは説得力がある。アルベルチーヌ忘却のプロセスで印象的だったのは、母と訪れたヴェネチアである。夕刻、母とゴンドラで運河をゆく「私」には「通りすぎる両岸に列をなすパラッツォが、そのときの光と時刻をバラ色に染まる壁面に反映させながら、しだいに変化してゆくさまを眺めていると、つぎつぎあらわれる住居や有名な歴史的建造物を眺めているというよりも、夕方、太陽が沈むのを見るために小舟に乗って遊覧しながら大理石の断崖の連なりを眺めているような気がする」(469頁)。美しい一節だ。そして、「私」が長い間訪れたかったヴェネツィアの風景のこうした変貌は興味深い。一つの場所の輪郭の箍がはずれ、ほかの場所とつながってゆく。その想像力のダイナミズムには、アルベルチーヌの不在が作用しているのではないだろうか。たとえば母とともにパリへ帰ろうかどうかと迷っているときに私の心に浮かんだ「ソレ・ミオ」のメロディが深い悲しみを引き起こしたという一節である。「この歌の絶望的でありながら心そそる魅力を形づくっていたのは、まるで心身が凍えかじかむほどに冷たいこの悲しみだったのかもしれない。」(535頁)「ソレ・ミオ」が執拗に鳴り響く切迫感あふれるこのあたりのパッセージはどこかヴィスコンティの映画を思わせる。