言葉の翼に乗って――ホメロス『オデュッセイア』(下)

新年度の雑事に忙殺されて、不覚にも読書会を失念してしまった。読書会があった日付に感想文を置くことにする。『オデュッセイア』下巻はオデユッセウスのイタケ―への帰還に焦点が絞られてゆく。息子のテレマコスとともに、妻ペネロペイアに言い寄りオデュッセウスの館を荒らす求婚者たちを誅殺せんとする復讐譚は、どこかホームドラマじみて『イリアス』に比べて物語のスケールが一気に縮小する感がある。

アテネの計らいで老いた乞食の姿となって故国に帰るオデュッセウスを待つのは吠えたてる犬たちと豚飼いのエウマイオス。このあたりが僕は一番好きなのだが、今回の読書で気が付いたのが『オデュッセイア』の随所にあらわれる「歓待」である。たとえばエウマイオスは、その乞食をオデュッセウスだと気づかぬままにもてなす。「客人よ、たとえおぬしよりもっと見すぼらしいお人が来られたとしても、客を軽んじるのはわしのしてはならぬことなのだ。他国から来る人も物乞いも、みなゼウスの遣わされるものだからな。」(37頁)見も知らぬ者をこのようにもてなすという行為は当時は当然だったのだろうか。デリダの『歓待について』を思い出した。このあたりの問題をちょっと考えてみたくなる。

もうひとつ惹かれたのが、不埒な求婚者たちを前にしてオデユッセウスが並べた斧の小さな穴を大弓で見事に射貫く場面。「智謀に富むオデュッセウスは、大弓を手に取って点検し、すっかり調べ終わると、さながら竪琴と歌に堪能な男が、よく綯い合わせた羊の腸線を両方にひき伸ばし、新しい糸巻きに苦もなく弦を張る如く、オデュッセウスは事もなげに大弓を張り、右手で弾いて弦を試みると、弦はその指の下で燕の声にも似た響きを立てて、美しく鳴る。」(248頁)弓と竪琴、武器と楽器が近接するこの一節に惹かれる。なぜかオクタビオ・パスの『弓と竪琴』が読みたくなった。