プルースト読書会 vol.11

吉川一義訳、岩波文庫版『失われた時を求めて』第11巻は第5篇『囚われの女』La Prisonnière後半を収める。その前半はヴェルデュラン夫人の夜会の場面で、シャルリュス男爵の庇護をうけるモレルがヴァイオリンを弾く。毒舌をまき散らしヴェルデュラン夫妻のひんしゅくを買うシャルリュスの人物造形は際立っていて、その博識や言動の滑稽さに引き込まれてしまう(それにしてもシャルリュスがピアノを弾けるなんてどうにも意外だ...)。『失われた時を求めて』において、生き生きと描写される例外的な人物であるように思えた。

夜会ではヴァントゥイユの未発表の作品が披露されるのだが、それとともに久しぶりにプルーストの深い芸術論も開陳される。未発表の作品には、すでに発表されたさまざまな曲やヴァリアントに通底する作曲家の「特異な歌」「歌の単調さ」(153頁)が聴きとれる。それは「魂を構成する諸要素がつねに同一である証拠」である。その諸要素は言葉では言い表しがたく、「それをこそ芸術は、エルスチールの芸術と同じくヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人と呼んではいるが芸術なくしてはけっして知ることのないさまざまな世界の内密な組成をスペクトルの色彩として顕在化させることによって、目に見えるようにしてくれるのではなかろうか?」(154頁)芸術は世界への旅を可能にする。「ただひとつ正真正銘の旅、若返りのための唯一の水浴は、新たな風景を求めて旅立つことではなく、ほかの多くの目を待つこと、ひとりの他者の目で、いや数多くの他者の目で世界を見ること、それぞれの他者が見ている数多くの世界、その他者が構成している数多くの世界を見ることであろう。」(155頁)芸術は複数性への視座を拓く。

もうひとつ本巻を通じて、そして読書会のディスカッションを通じてようやく気付いたことがあるので忘れないように書き留めておく。それは「私」の重層性である。355頁にこんな一節がある。「つまり私の発言はいささかも私の感情を反映していなかったのだ。読者があまりそんな印象をいだかないのは、私が語り手として、読者に私の発言を伝えると同時に、私の感情をも叙述しているからである。」すなわちここには、物語の登場人物としての「私」と語り手としての「私」のずれが明言されている。さらに、冒頭近く、スワンの死が報告される部分に次のような一節がある。「親愛なるシャルル・スワンよ、私はまだ若造で、あなたは鬼籍にはいる直前だったから、親しくつきあうことはできなかったが、あなたが愚かな若輩と思っておられたにちがいない人間があなたを小説の一篇の主人公にしたからこそ、あなたのことがふたたび話題となり、あなたも生きながらえる可能性があるのだ」(27頁)。ここでは「作家」としての「私」の振る舞いが際立っている。物語の登場人物としてその構成要素である「私」。その「私」を分析する語り手の「私」。そしてこのディスクール全体を小説として統括せんとする「私」。重層化する「私」のパフォーマンスとして『失われた時を求めて』は進行してゆく。読者が混乱するのはディスクールの同一平面上に、遠近感なく、登場人物の「私」のヴォイスと分析者としての語り手の「私」のヴォイスが共存しているからではないだろうか。(フォークナーだったら、あの「イタリック体」を使う。)