サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』2~群衆へ

下巻に入ってさまざまエピソードが錯綜し、道に迷った。「真夜中の子供たち」がインド亜大陸の大きな歴史の流れのなかで何某かのベクトルを示しながらエピソード群を綴じてゆくのかと思ったら全く当てがはずれた。「かくして私はもう一度わが家から追放されたばかりか、私の真の生得権である才能、真夜中の子供たちの才能からも追放されたのである」(p.116)。インドとパキスタンの現代史に登場する何人もの政治家のスキャンダルが語られてゆく。サリーム・シナイは妹ジャミラ・シンガーに接近し、離れる。「私が嗅げるものを、ジャミラは歌うことができた。(…) 私の鼻と彼女の声。」(p.185)ジャミラの声はナショナルな道しるべとなり、サリームの嗅覚は汚れた現実に向かう。そして浮上する「カシミールの夢」(p.215)。語り手の「私」はいったいどこに立っているのだろう? およそナショナルな空間とは無縁な複数の場所を漂うサリーム。サリームはどこにも立っていない。どんな集団をも代弁したり特権化したりすることはない。彼の語りには、尺度の壊乱とでも言うべき戦略がある。それはある意味で即興的であり、どこに向かうかわからない。いや、向かう場所はある。それは「群衆」である。彼に寄り添ったパドマは群衆の中に紛れてしまう。「私は群衆のなかになじみぶかい顔を見る、彼らはみなここにきている」(p.513-514)。「私生活を捨てて群衆という絶滅に向かう渦のなかに飲み込まれること、そして平和に生きかつ死ぬことができないことは、真夜中の子供たちの特権でもあり呪いでもある」(p.515-516)。インド亜大陸にひしめく17億人以上の人々。サリーム・シナイはその群衆の一人に紛れていく。群衆のエネルギーがこの小説を通して圧倒的に放射されている。