京都の環カリブ海文化研究会に行く

 京都、立命館大学衣笠キャンパスにて、「環カリブ海文化研究会」に参加した。
最初の西成彦先生の発表は「コロンブス暦〈第六世紀〉の〈アメリカ大陸文学〉と〈五つの大きな舌〉――オランダ領アンチルの位置」。2010年にキュラソー、シント・マールテンがオランダ領アンティルから独立したが、オランダ語クレオール語であるパピアメント語について学んだ。オランダの西インド会社は17世紀後半から奴隷貿易に専念し、奴隷たちはパピアメント語を話した。Carel de Haseth(1950- )によるパピアメント語の小説”Katibu de Shon”(1988)の一節が紹介され、西先生の朗読ではじめてその言葉の音に触れた。久野量一氏の発表は「環カリブの文学は何語で書かれているか?――非英語圏カリブ作家と英語の関係について――」。キューバ出身のロベルト・G・フェルナンデス(1951- )、プエルト・リコ出身のエスメラルダ・サンティアゴ(1948- )、ドミニカ共和国出身のジュノ・ディアス(1968- )、ハイチ出身のエドウィージ・ダンティカ(1969‐)は、子供の頃米国に移住し、創作言語を英語としている。(フェルナンデスはスペイン語も。サンディアゴスペイン語への自己翻訳もおこなう。)英語を母語としていないこれらの作家が示す英語への接近の仕方はさまざまである。資料としていただいたサンティアゴの『私がプエルト・リコ人だったとき』スペイン語版序文はとても興味深かった。英語で書くとき、スペイン語で話すとき、スペイン語で書くときの意識の差異。「英語でキーボードを叩いているあいだ、同じ単語がスペイン語で話されているのが聞こえて何度も驚いた」という作家の告白には、まさにグリッサンの言う「ランガージュ」の層が鮮烈に浮上する様子がみてとれるといえるだろう。ラングに回収されないランガージュ(表現言語、という訳はどう?)の現前。
 中村隆之氏の「ランガージュと潜在するもの エドゥアール・グリッサンの詩学を印す一つの踏み跡として」は、まさにグリッサン詩学の言語論的核心部であるラングとランガージュの問題にストレートに向かうものだった。ラングとは書かれたことばの言語的属性であり、ランガージュとは著述が進行しつつあるプロセスの相を指す、という説明は明快だった。
 最後の大辻都氏による「シモーヌ・シュヴァルツ=バルト『ティ・ジャン・ロリゾン』をめぐって―――クレオール・コントとフランス語小説のはざま」を聴いて、フランス語圏カリブ海文学における「コント」という源泉がいかに特徴的な要素であるかを再確認した。しかしシモーヌの創作はコントを直接的に小説に流し込むものではなさそうだ。「エクリチュールはオラリチュールの埋葬であり、口承は別のかたちで引き継がれている」といったマリーズ・コンデによるシモーヌ評が引かれたが、とにかく「『奇跡のテリュメに雨と風』、『ティ・ジャン・ロリゾン』を読みたくなった。大辻さん、これらの作品を訳すべきだよ。
 発表後の質疑応答において、オラリティがどこまでエクリチュールに浸透できるか、という点について活発な議論がかわされた局面があった。ラブレイズの英語が「しゃべり」であるという中村和恵さんのコメントは印象深かった。当然のことながら作家によってオラリティとの対峙の仕方は異なっている。(グリッサンはどうだろう。déparleurデパルレールという、あの大風呂敷を広げる喋り屋たちのことを思い出す。彼らはことばの即興主体である。)
 充実した午後のひとときだった。日帰り京都旅行。行きも帰りも新幹線のなかでお弁当。帰りの缶ビールが旨かった。