巨匠とマルガリータ(上)

管啓次郎研究室主催長編文学輪読会はウクライナへと向かった。ミハイル・ブルガーコフ巨匠とマルガリータ』(水野忠雄訳、岩波文庫)。1891年にキーウに生まれ1940年にモスクワで死んだ、ソビエト体制批判のためその作品が長く禁書扱いになっていたというこの作家を僕は知らなかった。なんと面白い小説だろう。第2章で唐突に挿入される「ポンティウス・ピラトゥス」。福音書に記述されたとおり、ローマの総督はイエスの処刑命令をためらった。だがその物語をいったい誰が語るのか? 物語の覇権争いで物語は幕を切る。冒頭でまずモスクワ作家協会幹部会議長のベルリオーズが、黒魔術師ヴォランドの画策により、路面電車に轢かれて命を落とす。彼は無神論者である。会議で彼の到着を待っていた幹部会のメンバーは12人。すなわち12使徒の長は悪魔によって消されたのだ。悪魔は神と相補的存在であり、無神論陣営は語り手として参入することが許されなかったのだ。ベルリーズの落命はイエスの処刑と重なる。

 ヴォランドはヴァリエテ劇場で黒魔術ショーを敢行し観客を翻弄し、劇場の責任者たちを次々と餌食にしてゆく。小説の出だしはリアリズム。そしてじわじわと超現実的世界へと滑り込む。そのシフトがなんとスリリングなことだろう。たとえば友人ベルリオーズを殺害された友人の詩人イワンがヴォランド一味を追いかけて追いついた次の場面(p.100)。「この一味の三人めとして加わっていたのは、どこから現れたのか、去勢豚のように大きく、煤か烏のように黒く、向こう見ずな騎兵のようにみごとな口ひげを伸ばした猫であった。三人組はパトリアルシエ横丁を目ざして進んでいたが、その猫ときたら、うしろ足二本で立って歩いていくではないか。」(p.100)。最高だね。世界が超現実界へとシフトする瞬間。さて、イエスの物語は誰が語るのか。悪魔が語りの主導権を握るのか? 後半を読もう。そして『福音書』とゲーテの『ファウスト』を併読せねばならない。