プルースト読書会 vol.5

今日は『失われた時を求めて』第三篇『ゲルマントのほう』の最初の三分の一を収める岩波文庫第5巻『ゲルマントのほうⅠ』を読む。バルベックで夏を過ごしたあとパリに戻った「私」は家族とパリのゲルマント家の館の一角に引っ越す。騎兵部隊の下士官である友人サン=ルーを田舎町ドンシエールに尋ねる部分がボリュームとしては大きい。物語は冬の寒さとともに進行する。この巻を読み進めるうちに「触発の詩学」というタームが脳裏に浮かんだ。オペラ座で「私」がラ・ベルマ演じる『フェードル』を観劇した際に客席にあらわれたゲルマント大公妃の美しさを描く次のパッセージである。「夫人のえもいわれぬ美しい線は、いまだ未完成で、目には見えないさまざまな線の正しい出発点、必然的な発端にすぎず、人々の目は、そんな目には見えぬ線を夫人のまわりに延長しては、闇に映し出される理想像の幻影のようにすばらしい線をつぎつぎと生み出さずにはいられないのである。」(95頁)ここで大公妃の美しさは客体として記述されているのではない。その美に触発された周りの者は夫人の美のラインをそれぞれの心象のなかに延長してゆく。夫人という対象は周囲の者を触発し、美はその触発作用において生成されるのだ。同じ状況は、サン=ルーが熱をあげる愛人ラシェルについても言える。サン=ルーが年に10万フランもの大金を与えているその愛人はじつは「私」が20フランで買った娼婦だった、という現実によって恋するサン=ルーの愚かさや滑稽さが「私」の嘲笑の的となることはない(サロンに集う貴婦人あるいは読者はそうするとしても)。「私にはラシェル・カン・デュ・セニュールがつまらぬものに思えたのではない、人間の想像力のたくましさ、恋の苦悩の原動力となる幻想が、じつに大したものに思えたのである。」(347頁)。プルーストは主観から切り離された対象を客観的に記述しようとはしない。客体と主体とが関係を切り結ぶ際に立ち上がる情動をできるだけ誠実に描こうと努力するのだ。触発された情動は自由に翼を広げる。「私たちの想像力は、指定された曲とはつねにべつのものを演奏する調子はずれの手回しオルガンのようなものだから、ゲルマント=バイエルン大公妃のうわさを耳にするたびに私の心中で調べを奏ではじめるのは、十六世紀のいくつかの作品の思い出だった。」(96頁)触発の詩学は世界を拡張する。

本巻で印象に残ったもうひとつのフレーズは疲労と熟睡が過去への遡行を可能にするという次のパッセージである。「眠りのいちばん深い地下の坑道」では「われわれが幼少だったときの庭を見出させてくれるのである。そんな庭に再会するには、旅をする必要はなく、深く降りてゆかなければならない。地上を覆ったものは、もはや地上にはなく、その下にある。死んだ町を訪れるには、遠出だけでは十分ではなく、発掘が必要なのだ。」(194頁)不思議な一節だ。(グリッサンもこうしたアルケオロジーを敢行した作家ではなかったか。)こうした垂直的収縮的な想起の詩学と拡張的な触発の詩学プルーストエクリチュールの随所に燦然と輝いている。