トルストイ『戦争と平和』3

「こんな夢を見た」(73頁)で始まるフリーメイソンの会員となったピエールの日記(73頁)が面白い。漱石の『夢十夜』を思い出してしまう。トルストイ白樺派に大きな影響を与えたと言われるが、果たして漱石もこの語り口からヒントを得たのだろうか。テクストに時々現れる「夢」の描写は興味深い。トルストイを読み始め感じるのは、ディスクールの境界がわりとかっちりしているということ。状況や登場人物の行動の描写、登場人物の心理の記述、それらは平明、明晰に表示され、読者はいま何が語られているのかについて迷うことがない。現実界とは一線を画す夢幻や錯乱は、いわば「夢」のディスクールの中に囲い込まれていて、それらの線引きはいつもクリアであるように思われる。  

トルストイの状況描写が時として退屈で平板に思える場面もある。例えば386頁あたりから始まるなオペラ鑑賞の場面であるが、まるでト書きのように単調である。文豪にこんな悪口言うのは分不相応だが、なんでこれが必要なのかと思ってしまう。それに対して204頁から始まる「犬追い猟」の描写の何と生命感に溢れ、ロシアの大地を彷彿とさせる鮮やかな一節であることか。読書会でも皆が絶賛したこの場面は、管先生の言われるように第一級の動物小説となり得ているだろう。ちょうど同時に古川日出男さんの『ベルカ、吠えないのか』を読んでいるので、はからずも犬小説の読み比べとなった。古川さんの方が数段ハードボイルドだが。登場人物の動きとしては、読書会でも多くのファンを得たナターシャがダイナミックだ。ギターを奏でつつ「さあ踊るんだ、姪っ子よ!」(256頁)と促すおじの言葉に、はじけるようにロシアのダンスを踊り出すナターシャは本当に可愛い。勇猛に犬追い猟に参加するかと思えばアナトールの誘惑に翻弄されて生気を失ったり、カレイドスコープのようにさまざまな面を見せる美貌のロシア女性の人物は確かに魅力的に描かれてはいる。しかし1人の人物にちょっと色々盛り込みすぎではないかとも感じる。たとえばバフチンアンドレイやベズーホフを例に挙げて、トルストイの登場人物について「それらの声のどれ一つとして、作者の言葉と同一平面にあるものはなく、彼らの誰一人とも作者は対話的関係に入ろうとしない」(『ドストエフスキー詩学』、望月・鈴木訳、ちくま学芸文庫p.147)と評しているが、言い換えればトルストイが造形する人物はあくまでも作者の操作子であると言えようか。ただ操作子ナターシャについてはちょっと欲張りすぎではないかとも思うのだ。バフチントルストイの小説を交響的と評したそうだが(出典未確認)、ナターシャという一人の人格のなかに多数のさまざまな要素が交響的に響き合っている、という言い方もできようか。的外れかもしれないが。