トルストイ『戦争と平和』6

戦争と平和』第6巻(望月哲男訳)を読了。ついにトルストイ・セッションが終了した。フランス軍の敗走の後を物語は追うことをしない。登場人物たちのエピソード群はピエールがペテルブルグに出発するところで終了する。戦争俯瞰と個人への接近という二極を振幅するディスクールに対応すべく、異様に長い2編のエピローグが置かれている。最初のエピローグは、夫婦となったナターシャとピエールが幼い息子と過ごす団欒とアンドレイ公爵の息子ニコーレンカが亡き父や叔父ピエールに思いを馳せながら自分の未来を切り開こうと決意する場面で唐突に終わる。唐突? いや、トルストイはある時空を切り取って語っただけなのだ。そこに「物語の結末」はない。人々の生の姿がそのまま記述されているのだ。第2のエピローグでは、小説の進行とともに次第に前景化してきたトルストイ戦争論が展開される。延々と続く哲学的なこのエピローグは読書会ではあまり人気がなかった。小説からの逸脱? だがたとえばメルヴィルの『白鯨』冒頭は延々と続く鯨学ではなかったか。巻末の訳者解説にもあるように、一時期、戦争論の部分が削除された版も出版されたというが、僕にはこの部分がとても興味深かった。戦争叙述を特定の個人の行動に還元する歴史観を批判するトルストイは、歴史における必然の法則と自由の問題を論じる。着地点はいまひとつ明瞭ではないように思われるが、トルストイの議論を読むうちに、歴史とは何かという問いが立つ。特定の個人を戦争のベクトルを左右する存在として特権化することを拒むトルストイであるが、ロシアの大将クトゥーゾフには肩入れしているような印象もある。だが、クトゥーゾフが「勝利」したのは、彼が無策だったからである。クトゥーゾフの存在が特権化されているのではなく、まったくその逆に、その無力さにもかかわらず勝利したという事実にトルストイは焦点をあてたかったのはないだろうか。個人が戦争を左右することはない、というテーゼの具体例としてクトゥーゾフは描かれているように思われる。物語と哲学的省察はひとつのディスクールを形成しているのだ。