トルストイ『戦争と平和』5

フランスから帰る飛行機の中に『戦争と平和』第5巻を置き忘れた。旅のあいだに読了し、下線を引いたりメモを書き込んだりしていたので痛恨であった。仕方なくもう1冊買い読書会に臨んだ。

ついにナポレオン軍がモスクワに入る。戦争描写は激しくなり、ヴェレンチャーギンのリンチやピエールが目の当たりにする銃殺刑の執行など、凄惨な場面に読者は遭遇する。リンチを命令したラストプチンの自己正当化のつぶやきは、戦争犯罪者に共通する心理のメカニズムであると言える。

本巻では、トルストイ戦争論が前景化する。冒頭の第3部第3編第1章や第4部第2編第1章にそれが開陳される。トルストイは、歴史家のあいだに見られる、指揮官や武将といった上層部の個人的行動が戦争の動向を左右するという意見に真っ向から反対する。決して俯瞰できないさまざまな状況が絡み合い、人間の集団的な力動性によって戦況は推移するというのが彼の意見である。「歴史的英雄の意思は大衆の行動を指導しえないばかりか、むしろ自分の方が絶えず大衆の行動に引きずられているのである。」(424頁~425頁)しかしマクロな視野から戦争を俯瞰する態度は一種の不可知論へと向かってしまわないか。訳者の望月氏は「トルストイ流の大きな論の立て方は、事象の細かな背景を説明するよりもむしろ隠蔽してしまうことにつながりやすく、それゆえのあいまいさや危険をはらんでいます」と巻末で述べる(558頁)。読書会でも、指導者の戦争責任を曖昧にしかねないトルストイの意見に疑問の声が上がった。そう思う。ただ、戦争指導者の個人的な力量と判断力がつねに戦争行動を牽引する決定的要因であるとはいえない、といったトルストイの説には、うなづけるところも多い気はする。ナポレオンの退却が、ロシア側の指揮官の周到な戦略ではなく、コサック兵たちの襲撃に偶然遭遇した結果はじまったという記述(529頁)は印象深い。

アンドレイ公爵の死の描写は不思議である。戦傷を乗り越えたのに一種の神経衰弱のような状況に陥って生きる気力を喪失して死んでしまうのだが、その件はいささか観念的に過ぎるように感じられる。

フランス側の捕虜になったピエールが出会うプラトン・カラターエフがとても魅力的な人物だ。「それはあらゆるロシア的なもの、善良なもの、まろやかなものを体現した存在だった。最初の日の翌朝早朝、改めてこの隣人を見た時も、なんとなくまろやかだ、つまり丸っこいという第一印象はいささかも変わらなかった」(386頁)「まろやか、丸っこい」という訳が面白い。捕虜のプラトンは晩に寝床で、こんなお祈りをする。「神さま、石ころのように寝かせ、丸パンのように起こしてください」(387頁)。第5巻で一番気に入った一節。