トルストイ『戦争と平和』4

望月哲男訳『戦争と平和』4は第3部の第1編と第2編を収める。1812年、クトゥーゾフ率いるロシアとナポレオン率いるフランスとのボロジノ会戦の様子が描かれる。戦争の物語のなかで語りの主体となるのは軍人=貴族であり、民衆ではない。したがって『戦争と平和』における戦争は、軍人=貴族=男性の視点からもっぱら記述される一枚岩のディスクールであるとといっていい。だが本巻ではそこに「外部」から闖入する人物が二人いる。一人は「語り手」(トルストイ)であり、もう一人がピエールである。「語り手」は本巻あたりから戦争に批判的に介入し始めるーートルストイの、歴史の表舞台に現れる人物にフォーカスする戦争論批判については第5巻のところで触れたい。ピエールはこの戦役で任務のある軍人ではないにもかかわらず戦場の様子を伺いにやってくる。彼は外部者として戦争のディスクールに闖入すると言ってもいい。職業軍人によるゲームとしての「古典的戦争」から民衆を巻き込む総力戦という「近代的戦争」への端境期を描いた本作において、百姓からなる「義勇軍」(p.412)へまなざしを向けるピエール。また担架で運ばれる負傷兵に眼差しを向ける(p.492)ピエールーー負傷兵の傍らにいる上官は負傷兵を見ようとしない。また、『戦争と平和』における平和が描かれるのは貴族の生活やサロンであるが、ピエールはサロンで華やかに脚光を浴びる存在ではなない。さらにピエールはフリーメイソンに入会するのであり、ロシア正教会ともカトリックとも距離を置く。このようにピエールは、『戦争と平和』のドミナントな操作子(登場人物)の場所に闖入し、そこに緊張をもたらす異端者であるといえまいか。

さて、軍人=貴族=男性が主体の物語のなかで、民衆がにわかに自己主張をする場面がある。それは老ボルコンスキーが死去した後、自己を犠牲にして父を支えてきたマリアが、フランス軍が迫り来る中で、父を継いで領主となる覚悟を決めて決断を下し、領地の農民をより安全な他の場所に移住させようと提案するときに農民が拒否する場面である。新しい土地に連れていかれて「どうせまた農奴にさせられるのだろう」と訝る農民の語りがあらわれる(330頁付近)。が、マリアには農民の拒絶の理由がつかめない。にわか領主の「人道的」エゴが農民の感情と乖離する様子がそこに描かれる。だが農民の拒絶の理由は、マリアのみならず、読者の僕にもいまひとつつかめないところがある。なぜ農民たちが土地を捨てることを渋ったのだろう。とにかくここでは領主に反撃する民衆の意思が浮上している。

本巻に至って、戦争で命を落とす兵士の描写が前景化してきた。「何万もの人間がいろんな姿勢の、いろんな軍服を着た死体となって畑や草地に横たわっていた。それは地主のダヴィドフ一族と国有地農民の所有地で、その畑や草地では何百年もの間ボロジノ、ゴールキ、シェワルジノ、セミョーノフスコエの村々の百姓たちが作物を取り入れ、同時に家畜を放牧してきたのだった。[...]まるで雨はこう語り掛けているかのようだったーー「もうたくさんだ、たくさんだよ、人間たち。よしなさい...。正気に戻るんだ。君たちはいったい何をしているんだ?」(553-554頁)。200年以上たっても人間は同じことを繰り返しているわけだ。地球温暖化に対して総力をあげて対処しなければならない状況において、そんなことをしている暇はないはずなのに。「雨」の忠告に耳を傾けよ。