エドゥアール・グリッサンが死去してから丸2年が経った。あれ、1年ではなかったか、と錯覚するほど時は矢のごとく過ぎ去っていたのだった。命日の今日、中村隆之・星埜守之・今福龍太という3人の語り部によって吉祥寺のカフェ・ズミに引き寄せられた。今年生誕100年を迎えるエメ・セゼールとグリッサンの集合人格エメ=グリッサントが召喚され、ひとつの場所を確定するのではなくひとつの場所から〈全‐世界〉の想像界を開く集いが始まった。中村隆之はグリッサンとセゼールの詩と関連する音楽をいくつも紹介しながら語った。その語りから多くのことを知る。冒頭で流れたマタイ受難曲には驚いた。サン・ジェルマン・デ・プレ教会でのグリッサンの葬儀でずっと流されたというバッハの名曲はグリッサンのお気に入りであり、マチューとはグリッサンの守護聖人であるという。そうだったのか! マルティニック・サガの中心人物であり、息子の名前でもあるマチュー。1987年の小説『マアゴニー』の最終章は「受難劇、マチューによる」だが、グリッサンとマタイ受難曲とがこれほど深い関係にあるとは知らなかった。くだんの最終章では、マチューと同じくマルティニク・サガの主要人物ラファエル(タエル)が作家グリッサンについてこう語る。「あいつは林間の空き地では居心地が悪いのさ。見通しのきかない大きな苦悩の方が好きだからね。」(p.184)グリッサンはブルースマンだとぼくはつねづね思ってきたけれど、マタイとのこうしたつながりは偉大なる詩人に接近するための大きな示唆を与えてくれた。そしてグリッサンが生前最後に書いた詩片が読まれた。2011年9月21日、グリッサンの誕生日での集いに未亡人のシルビィさんによって明らかにされたものだという。そこにはこんな一節が含まれていた。「詩の悲劇はふたつの空間を結びつけることだ」。最後はこう結ばれた。「アポカル、アポカル、アポカル」。魂の奥に錘のように降りてゆく謎のことば。
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今福龍太は星埜守之のギターによる即興的伴奏に乗せて、即興的にいくつかの詩を読んだ。グリッサンの遺作である『大地、火、水、風』(2010)からニコラス・ギレンや何人かの詩人のことばが空間に響き、グリッサンというトポスはゆっくりと広がって行った。そのさざ波は星埜守之によってニューカレドニアに到達した。
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2008年にマルティニク島で詩人モンショワシーはラクゼミという集いをはじめて開いた。システムの中に生きている人々をその外に出す試み。今宵もひとつのラクゼミだった。収縮し拡散する言葉と音楽と映像。想像力のレッスン。会のあと夜更けまで酒と泉さんのお話しとフリージャズ。Robin KenyattaのGirl from Martinique(ECM 1008)を聴けたのがうれしかった。いい音だ。ケニヤッタのフルートは上手い。クラヴィもいいねえ。