シャモワゾー・ウィーク2- - 戦士と反逆者――クレオール小説の美学

 久しぶりの本郷キャンパス、日が暮れてから湯島方面から構内に入ろうとして苦労する、ずいぶんモダンになった建物もあれば、昔ながらの建物もあり、不思議な時間のエア・ポケットに入り込んだような気分になった。
 塚本先生、星埜先生のナビで、今日のお題は《Guerrier et rebelle --- pour une esthétique du roman créole》。しかしタイトルにストレートに収斂するというよりも、シャモワゾー氏が自身の創作態度を自由に語るなかでそうした視点がにじみ出るといった感じの流れだった。今日の朗読は『テキサコ』冒頭部だった。
 まずは「クレオール」概念について包括的に振り返る話。奴隷制という暴力的状況のなかでカリブ海で生じた「クレオール」とは、現地生まれの白人入植者、現地適応したすべての文化事象、そしてとりわけクレオール言語を指す。共通の特徴はそれらがcomposite混合的であること。そうしたクレオール化によって生み出されるクレオール性は、いわばひとつの絶対者の神話から成り立たない文化様態であるといえる。文学についていえば、クレオール語とフランス語のバランスの上に成り立つ営みであり、「重要なのはラングではなくランガージュ(表現言語)である」とグリッサンが言うように、シャモワゾー氏の文学実践はそのふたつのラングのなかに位置する混合的なるものの複雑さを提示することにある。フランス語圏カリブ海文学史をおさらいすれば、まずはムラートの模倣的文学があり、つぎにセゼールのネグりチュードが革命的覚醒をもたらし、そのあとをグリッサンのアンティユ性が継いだ。グリッサンにいたって初めてわれわれの文化の混交的特徴が自覚された。
 世界は関係Relationの相にあることをみてとり、多様性、それに付随する理解不能な他者の存在l'opacitéへとまなざしを向けること。『テキサコ』執筆について語りながらシャモワゾーが強調したのは、「あたらしい美学」の提唱である。われわれを構成するすべての要素を創造の原動力とすること。オラルとエクリ、クレオール語とフランス語…。『テキサコ』から『カリブ海偽典』に向かう道のりのなかでは「関係性」が前面に打ち出された。「全体ー世界」Totalité de Mondeを語る小説への試み。それは国家、地域、言語共同体といった特定のコミュニティの立ち上げや強化を目指す文学ではない。個人を「全体−世界」へと開きその刺激のなかで構築することが問題となる…。この「個人性」は注目すべきポイントであるように思われた。2007年3月16日のル・モンド紙に発表された「フランス語における文学‐世界のために」と題された宣言(グリッサン、コンデ、ベンジェルーンら44名の作家が署名したがシャモワゾーは加わらなかった)をabsurdeだと一蹴したのは、同宣言がフランコフォニーを批判するとしても依然としてフランス語という空間の紐帯強化へ向かう傾向を強く示していたからであろう。共同体に挑むなんというファンタジックな「戦い」なのだろうか。
 それにしても、迫力ある講演を聞きながら、いかにシャモワゾーがグリッサンの詩学を受け継ぎ血肉としているかが痛感された。『カリブ海偽典』はシャモワゾーの「全−世界」小説であり、その主人公である瀕死のバルタザール・ボデュール=ジュールは、まぎれもなくグリッサンのいう「はめをはずして語る者」déparleurなのだ。
 ひとつ気になった些細なこと。晩年のグリッサンは「詩学」から「美学」という用語を使うようになり、シャモワゾーも最近しきりに「美学」という。ふたつの用語の使い分けに何か意味はあるのだろうか? アートという場を強く意識するようになった所産なのだろうか。今度機会があったら聞いてみたい。

 講演が終わってへとへとになった。仕事疲れと、久しぶりにフランス語のシャワーを浴びたからだった。(2013年1月24日記)