シャモワゾー・ウィーク3- - カタストロフィと正義

 午前中の仕事を終えてダッシュで東京駅へ。山手線ホームから12分の乗り換えで13時半発のぞみ35号に駆け込み一路京都に向かう。15時50分着。駅からダッシュでバス停へ。16時の市バスに飛び乗って16時半すぎ立命館大学衣笠キャンパスに到着。ふう、なんとか間に合った。「カタストロフィと正義」と題された講演は17時に始まった。カタストロフィからわれわれは何を学ぶことができるのだろうか?
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 今日の朗読では『テキサコ』のプレ山噴火の一節が読まれた。語り手マリー=ソフィー・ラボリューの父エスルノームが、恋人である奴隷女ニノンを、廃墟と化したサン・ピエールの街でむなしく探す場面である。ここにはふたつのカタストロフィ、すなわち火山噴火という天災と奴隷制という人災が描き出されている。シャモワゾー氏は奴隷制植民地主義、人が引き起こす環境問題という3つのカタストロフィを問題にした。大災害に際して人は「取り返しのつかないもの」irréparable、「思考不可能なもの」impensableに直面する。そこに正義la justiceの問いが立ちあがる。カタストロフィをほんとうの意味での「経験」に変えるためには何が必要だろうか? まずは失われたものを正当に評価することrendre justice、そしてそれを記憶に留める営為である。さらにそのカタストロフィが関係する範囲を把握すること。奴隷制植民地主義は黒人に対する罪ではない。それらは「人間性に対する罪」le crime contre l'humanitéである。原発事故の問題も同様である。それは福島だけの問題ではないはずだ。政治、科学、芸術、宗教、あらゆる領域の力を結集してその問いを引き受けることが必要だろう。しかし、今の日本で果たしてそうした回路が作動しているだろうか? 忘却の回路だけがフル稼働しているような気がする。
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 司会の西成彦さんは日本の近代植民地帝国、カリブ海文化の日本への受容について明快で力のこもった俯瞰をされた。ディスカッサントをつとめられた科学哲学者ポール・デュムシルさんは「カタストロフィと正義」をめぐるプロジェクトを立命館を中心に展開されている。充実した会であった。19時終了。パーティにも出たかったがそうすると今日中に東京に帰れなくなってしまう。明日は朝から仕事で休めない。並んで座った中村さんや大辻さんに挨拶してまっしぐらに京都駅に戻り、20時33分発のぞみ58号で帰京する。車中の缶ビールの旨かったこと。(2013年1月16日記)