シャモワゾー・ウィーク4- - 口承性とエクリチュール

 シャモワゾー・ウィークの最終日、アンスティチュ・フランセ東京での吉増剛造との圧倒的な対談。詩人の言葉を反復すればまさに「奇蹟的な夜」だった。ふたりの、あるいはふたつの言葉のみぶりの信じられない交錯に茫然となった。吉増剛造の仕事の意味をようやく理解するきっかけが、カリブ海からやってきたシャモワゾーとの出会いによって与えられたということのショック。冥界へと降りてゆくような「言葉を枯らす」詩学の体現者と、邦訳で900頁を越える豊穣なる言葉の洪水を差し出す語り部とが共振するショック。今宵もまたヤスミナ・オ・ユ・ファと関口涼子によって『カリブ海偽典』の一節が朗読された。次に吉増剛造が『絵馬』の一節を朗読し、関口涼子が間髪を入れずに仏訳であとを追った。そのスリリングな掛け合いのような二言語による声のラインの絡み合いはひとつのリズムに乗った音楽となった。そしてそのあとに、『カリブ海偽典』の精読にインスパイアされた詩人の『わが鼓動』と題された書き下ろしの詩作品のコピーが配布され、朗読されたのだった。

 「Chamoiseau、とても丁寧な巨樹がこころに樹‐間(た)つ気がしていた...」
 「わたしたちの聲の深淵、...わたくしは初めて口笛がとどく未来を知ったのかもしれなかった、...」
 「靄の隕石の重力の小径を、言葉を枯らしながら、月よ、ここだ...」
 「宇宙全体が古い木々の放心に似た放心、存在するものと、存在しないものがある。そして両者のあいだに残余のもの
  がある(111頁エピグラム)」

このように引用しながらすぐに気づくのは、詩人独特のノーテーションが反映されない引用と、詩人の声の不在がいかに言葉の力をそいでしまうかということ。エクリチュールとオラルのあいだに言葉の身ぶりが在り、その身ぶりのパフォーマンスにこそ詩のことばの力が宿っているのだ。その力を詩人は「残余」と呼んだ。朗読を終えた詩人はつぶやいた。「二度と書けない、二度と読めない詩でしょうね。」それはまぎれもない即興者の魂のつぶやきだった。
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 一方シャモワゾーはクレオール文学と自身の創作におけるオラリテとエクリチュールの関係について丁寧に語ってくれた。クレオール語による「語り部」はすでにフランス語というエクリチュールを知っているという現実。そうした状況のなかでフランス語を捉えなおす動きが生まれる。オラリチュールoralitureともいうべき両者の交錯。それはシャモワゾーのロマネスクな世界のさまざまなレベルにあらわれる。『テキサコ』では作家は「言葉の聞き書き係」だった。オラルとは身ぶりのある言葉のことだ。イギリスの人類学者ティム・インゴルドは『ラインズ』のなかで「身ぶり」gestureのひとつとして発話をとらえ、口述筆記における聴覚性に注意を促していたが、その議論が思い出される。シャモワゾーのエクリチュールにはオラルの力が豊かに流れ込んでいる。
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 吉増はシャモワゾーを「世界の立ち上がり方が非常にやわらかく深くなってきている」と評したが、それはまさにグリッサンの詩学を引き継いだシャモワゾーの世界の核心をついていると思った。