シャモワゾー『素晴らしきソリボ』

 読み終わったとき、万感胸に迫る思いだった。グリッサンの『第四世紀』の最後に登場するクロワ・ミッションの喋り屋ボザンボ、シャルルカンが、まるで、語りの達人ソリボの姿となって目の前に現れたように思えたからだ。グリッサン詩学を継承し、小説ジャンルのうちに開花させたシャモワゾーの初期の傑作。翻訳者のひとり、関口淳子さんのあとがきにもあるように、『テキサコ』や『カリブ海偽典』につながるシャモワゾーのマルティニク路地小説のエッセンスがすべてぶち込まれている。クレオール語やフランス語のアクサンをひらがなに転写する魔術的翻訳術に魅了されつつ一気に読む。一気といっても、速読はできない。おもちゃばこをひっくり返したような言葉のスラップスティックなダンスについて行かなくてはならないから。はじめの方は音読した。これはしゃべり言葉だから。
 ここでもまた3つのディスクールが問題になる。まずは扉に記された司法警察官の調書。これはフランス語の制度の言葉であり、権力・植民地主義の相関者である。そしてソリボの口上。この即興されるしゃべりのパフォーマンスはもちろん文学空間に存在しない。読者はその痕跡を書字を介して想像することによって口伝のディスクールに接近する。その接近を可能にするのが、「言葉の聞き書き係」シャモワゾーが本文中に語る悪戦苦闘の努力である。シャモワゾーは街の庶民の生活を追ってテープレコーダーを手に走り回る。しかしその努力はむなしい。ソリボはシャモワゾーに語る、「おまえが触れているもの、それは距離そのものなのだ...」。しかしシャモワゾーはあきらめない。「記憶が口に出される言葉の中にあり、語りの言葉を通すことで抵抗するという時代と、生き残る術は自らを書くことにあるという時代」のはざまで蝕まれ「ことばによって咽を掻ききられて死んだ」ソリボの思い出を、ソリボのことを知る仲間たちとともに想起し「紙の上に写し取った」。それはシャモワゾー流の、語りの即興の再構成であり、ソリボのまわりに集う聴衆たちの物語を書くことによって制度的な言葉=思考の下に息づくマルティニクの民衆生活世界を浮上させる試みである。 「道をふみはずす者」ソリボよ、ぼくもたしかに君のことばを聴いたよ。