「美術を哲学する――現代フランス思想とイメージ」

 13時ぎりぎりに恵比寿の日仏会館ホールに到着すると、以前インゴルドの翻訳でヤナーチェクの手稿楽譜の調べ物を手伝ってくれたHくんと思いがけず再会した。澤田直さんコーディネートのセミネールは大入り満員。「物質とはイマージュの総体である」と喝破したベルクソン以降、フランス哲学における豊かなイメージ論の系譜のなかで特権的なトポスを占める美術(絵画)作品。今日は両者のスリリングな関係について学んだ。(しかしきっちりした連続講義についていくのはとってもディープ、ふう...。)以下は自分の理解したこと、思いついたこと(このところ訳読に取り組んでいるグリッサンのヴァレリオ・アダミ論がどうしても想起される...)をしるす稚拙なメモ。
 最初の岡田温司さんの「イメージのエコノミー:神学の脱構築とイメージ論」ではマリ=ジョゼ・モンザンを下敷きにキリスト教神学とイメージの関係が問題となった。8世紀東方教会におけるイコノクラスムにおいて顕在化するイコン(聖像)/イドル(偶像)の対比。神の受肉/統治であるオイコノミアにおいて、神のイマージュは可視化され時間のなかに定位し、人間のあいだに住まう。それがイコンである(たとえば聖ヴェロニカの聖骸布)。モンザンは、イコンの本質を、メシアが地上へ自己追放される契機、ケノーシス(神性放棄)としてとらえる。そうしたイコンにあらわれるのは、いわば神の不在である---ヴェロニカの聖骸布にはシミしか認められない。イコンに発動しているのは単純なミメシス作用ではない。イコンには見たいと思うものは見えない。イコンには見られる対象と見る主体という2項関係ではなく、他者のまなざしという第3項が介入している。そうしたイコンが単純なミメシス回路に回収され、可視的なものが挑発する情念や暴力の前に差し出されるとき、イコンはイドルに変質する...。キリスト教文化における〈神性〉と〈痕跡〉との緊張関係。痕跡という記号の射程を考えるひとつのきっかけともなった。(それにしても、積ん読状態のアガンベンに挑戦しなければ。)
 次の吉田裕さんの「マネはバタイユによってどのように読まれたか:聖なるものの行方」。主題と技法の両面からスキャンダルを引き起こしたマネの「オランピア」(1863)に、ビーナスの不在、聖なるもの威厳の消失が浮き彫りになる時代状況をとらえるバタイユ。同時にそこにはタガのはずれた生産過剰と自由な消費という経済の変容が投影されている。僕には「フォリ・ベルジェールの酒場」(1882)が論じられたときにバタイユとともに引用されたフーコーの『マネの絵画』の議論が興味深かった。フーコーは表象空間構成技法の点で、マネとマネ以前の古典的絵画との差異を指摘する。「その中では垂直線と水平線が果てしなく繰り返されていて、奥行きは抹消されています。」遠近法によって制御される規範的な空間は消失したのだ。その結果、マネ以降の絵画には、画面にさまざまなものがひしめき合う結果となる、と吉田先生は語った。ここでグリッサンによるアダミ論がふと脳裏をよぎる。一見して平板で装飾的なアダミのデッサンやタブローにおける「線」をグリッサンは問題としていて、それを空間を区切る機能であるとともに複数の空間を架橋し接続する性質をもつことに言及していた。アダミの描く画面にも多くのイマージュがひしめき合っているのだ。アダミを論ずることによってグリッサンは自身の複数性の詩学を補強する。絵画的イマージュはまことに哲学的思索を挑発し共振するものだ。
 松浦寿夫さんの「セザンヌと哲学者たち」。ガスケの『セザンヌ』がさかんに引用された。面白そうだ。さっそく読んでみよう。絵画制作のなかに美ではなく真実を追求したセザンヌ。その真実とは「自然」である。松浦氏は、基底面の支えなしに対象の「関係」を描こうとしたセザンヌの手法に注目した。奥行きをどのように画面に表出すべきか。存在の究極単位である原子と可視化されざる空虚である関係を布置しようとしたセザンヌ。その手法で画家は自然に接近しようと試みる。ところで、そのセザンヌ詩学を補強するために松浦氏が引かれたドゥルーズのヒューム論が大変興味深かった。Empirisme et subjectivitéは昔読んだが、シャトレ哲学史のために書かれたその小さなテクストはスルーしていた。こいつは重要なテクストだった。ドゥルーズはヒュームの経験論の根底にある観念連合説を駆動させる「関係性」に注目する。関係は連結されるべき項の外部にある(Pierre est plus petit que Paul.のpetitはPierreにもPaulにも属さない)。グリッサンの関係の詩学が試みる多文化接触の世界観とヒューム的な関係性原理――関係は項の外部にある――とを比較して考えてみることは案外おもしろいのではないかという気がする。むろんグリッサンの思考は植民地主義という社会的文脈において生成されたものなのだが。
 郷原佳似さんの「ジャコメッティを見るサルトルブランショ−−−距離について」。三つのテクスト(宮川淳をいれればよっつか)の相互作用についての綿密なテクスト読解。インターテクスチュアリティの極み。乗り越えることのできない〈距離〉――対象と見る/制作する者との距離――が語られた。その絶対的距離(ブランショ)こそが芸術を成立させる。その距離は現前の深みそのものである、とブランショは言う。対象と一体となることはできない。存在するのは、立ち現れる他者のイマージュだけなのだ。静まり返った純粋なる文学空間をうがつブランショ。グリッサンの詩学はその空間を揺らし複数化する。
 トリの小林康夫さんの「絵画、魔術的哲学として」。美術史のエピステーメー。むちゃくちゃ面白かった。15世紀前半、マサッチオの「聖三位一体」において計算可能な表象空間が立ち上がった。「自然」の出現である。その表象空間はベラスケスの「ラス・メニーナス」(1656)で極点を示し、19世紀後半、マネの「オランピア」において「自然」は「実存」に席を譲る。数学性に代わって色彩と感覚性がキャンバスに投影されるようになった。そのブルジョワ的実存をぶち破ったのがピカソの「アビニョンの娘たち」(1904)である。そこには「仮面」が描かれ、絵画は主体の表現から悪魔祓いのための「戦い」へと移行した...。西洋芸術における呪術性の登場は確かに興味深い。小林先生が引かれたマルローの『黒曜石の頭』を読んでみよう。グリッサンの詩学が志向するバロック性もそうした延長線上で考えられるだろうか。オーネット・コールマンからキース・ジャレットに受け継がれた音楽の流体性や呪術性についてもいっしょに考えられるだろうか。キースの70年代の音楽の核にあるものは明らかにチック・コリアハービー・ハンコックとは異質であった。さて、その一方でお話しを聴きながら思ったのは、ポスト・実存主義絵画(?)としてはもうひとつ、マテリアルへの焦点化もあるのではないかということだ。たとえば1950年代のルーチョ・フォンタナの「空間概念」。キャンバスを切り裂いたナイフの軌跡は絵画空間を無限に開こうとするマニフェストだった。(かつて高校生の僕はその鮮やかなイマージュにノックアウトされたのだった。)媒体やマテリアルの前景化。それも現代芸術のエピステーメーではあろう。