シャモワゾー・ウィーク1- - 文学の力

 パトリック・シャモワゾーが日本にやってきた。今週計4回の講演が東京と京都で行われる。全部聴くことにした。月曜日の今日、新宿紀伊國屋サザンシアターでの初日は堀江敏幸さんの司会で大江健三郎氏との対談。1200円払って満員のホールへ。となりには偶然野崎先生がいらした。大江氏は今年3月のパリでのブックフェアSalon du livreで、ある人物がフランス語を話しているのを耳にしてその人物がシャモワゾー氏だと直感する。その通りだった。それまで面識はなかったにもかかわらず、大江氏はシャモワゾー氏のテクストを読むことで感じ取った作家としての「声」を実際のシャモワゾー氏のパロールに聴きとったのだった。作家と作品はちがうものだ、とはよく言われるが、ふだんの話ぶりが作品の語り口に結びついていると思うケースも確かにある。
 対談では大江氏がいかにシャモワゾー氏の作品にほれ込んでいるかがよくわかった。シャモワゾー氏の最新作、ロビンソン・クルーソーもの(L'empreinte á Crusoé, 2012) も読んでみたくなった。トゥルニエのロビンソン(Vendredi ou les Limbes du Pacifique, 1967 邦訳『フライデー、あるいは太平洋の冥界』)と比較してエコロジカルな問題系を考えながら。大江氏はクレオール文学が示す「水平的広がり」という特徴から、尖閣問題へと話をつなげて行った。たしかに沖縄や台湾や中国の漁師たちは、水平の関係を結んでいたのだった。グローバル化vsクレオール化なんて一昔前に流行った時代遅れの文化ファッションだよ、などと片づけないで、21世紀の文化の在り方を想像する基本的な視点としてクレオール文学の現在を考えてみたい。そこには文学だからこそ提示される想像力の波動があるだろう。(2013年1月28日記)