言葉の翼に乗って ―― ホメロス『イリアス』(上)

管啓次郎研究室主催の長編文学読書会はプルーストから始まり、セルバンテス、ダンテと時空を遡行して、ついにホメロスにたどり着いた。テキストは松平千秋訳岩波文庫。今日は『イリアス』上巻を読む。『イリアス』は再読である。原文はヘクサメーター、英雄六脚韻でつづられるトロイ戦争語り。日本語散文訳を読むわけだから紀元前8世紀ごろに成立したギリシャ叙事詩本来のリズムはわからない。だが「物の具がカラカラと鳴った」「翼ある言葉をかけて言うには」といったクリシェの頻出はテクストが口承世界に由来するものであることを物語っている。ホメロスの詩の本質が定型句によって組み立てられる口承性にあることを指摘したのはミルマン・パリーとその弟子アルバート・ロードであった。(アルバート・ロードのThe Singer of Talesは昔カントリー・ブルースで修士論文を書いたときにお世話になった。もう一度読んでみようかな。)ホメロスのテクストは書字と口承のはざまにある。書字として固定された詩文はトロイ戦争を語った多くの吟唱詩人のパフォーマンスの痕跡の束でもあるだろう。

イリアス』には兵士たちが意気消沈しているときに指揮官がそれを諫める場面が結構でてくるが、それが面白い、と読書会で話題になった。たとえばアガメムノンの次のセリフ。「口ばかり達者で腰抜けのアルゴス人たちよ、お前たちは恥を知らぬのか。まるで広い野を走り疲れて立ち止まり、敵を相手に戦う気力もない小鹿のように、こうして呆然と立ちすくんでいるとは何事か。」(第4歌、p.122) 人間ばかりでなく女神も結構激しい。例えばヘレ。「恥を知れ、アルゴス勢の者どもよ、おぬしらは姿こそよけれ、根性は腐った腰抜けばかりじゃ。」(第5歌、p.175) 実は、ホメロスを演ずる吟唱詩人の腕の見せ所のひとつは、兵士を叱咤し鼓舞する言葉を感情をこめて巧みに再現するところにあったようだ。プラトンの初期対話篇『イオン』では、吟唱詩人イオンが、人を鼓舞する吟唱詩人の技についてソクラテスと議論を戦わせている(散歩者の日記、2015年11月15日参照)。

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 さて物語はギリシャ側の内輪もめから始まる。ギリシャ側の総大将アガメムノンアキレウスの愛妾ブリセイスを奪ったことでアキレウスは激怒する。女性が「戦利品」扱いされるという露骨な男性中心主義を西洋文学の源流においても確認せざるをえない。また、もともとその一部を取り出して歌い語られたテクストであるから、近代的な「黙読」の対象としては、その口承的定型性はいささか単調である。というわけで少し忍耐のいる読書であったが、それでも読み応えがあったのは第六歌のヘクトルとアンドロマケの語らい。帰らぬ戦に出かける甲冑に身を固めた父の姿におびえて泣く幼いスカマンドロスの件は人情物の風情がある。ちなみにヘクトルとアンドロマケといえば、ぼくはデ・キリコが描いたあのマネキンのタブローを思い出す。