ダンテを読む(3)『神曲』「天国篇」

三浦逸雄訳『神曲』読書会も今日で最終回。ベアトリーチェとともに、ダンテの主人公はついに地上を離れ天空へと旅立つ。プトレマイオスの天動説を下敷きに、月光天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天へと上昇する旅である。しかし恒星天を過ぎ、原動天、至高天に至ると物理的宇宙は神的世界へと変貌してゆく。当然のことながら天界をめぐる旅に自然描写はほとんど現れない。その代わりに神学談義が大部を占める。たとえば月光天ではプラトンの霊魂説などが批判され、水星天では原罪の問題が議論される。太陽天でダンテの主人公はトマス・アクィナス、ボナヴェントゥーラなど偉大なる神学者の霊と出会う。火星天ではダンテの父祖カッチャグイーダの魂と出会い、フィレンツェの昔話を聞く。

「煉獄篇」Purgatorioのクライマックスをつくる重要な記号は、最後に登場する「樹木」だったが、「天国篇」Paradisoではそれはまぎれもなく「光」である。あるいは光の乱舞。たとえば木星天に登場する光の文字 ――― Diligite iustitiam / Qui iudicatis terram (正義を愛せよ/地を審裁く者たち)。「きよらかな聖者たちは、その光芒のなかでDになり Iになり Lになって 歌をうたっていた。その群れは はじめこそ その調べに合わせて歌っていたが、やがて それが一つの文字の形になると、しばらく たちどまって 歌をやめていた。」(232頁) 歌は光の文字として整うと沈黙する。そしてその最後の文字Mから無数の光が放射される。「その光明がそれぞれ そのあるべきところに落ちつくと、神の鳥[鷲=ゼウスの鳥、木星はゼウスの星、訳注]の頭と首とが そのひときわ鮮やかな炎となって あらわれるのが見えた。」(234頁)。ダンテによるヘブライ神話的天国への旅には、このようにギリシャ神話の要素も合流する。

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「光」とともに重要な記号が「鳥」であろう。「鷲」はギリシャ・ローマを象徴し、「ペリカン」はキリストを指す。だがとりわけ興味深かったのが、主人公が土星天で遭遇する彷徨う霊たちが「みやま鴉」に例えられる一節である。「みやま鴉は夜があけると、凍えた翼をぬくめようと 群になって移るものだ。そして[鴉は]行ったっきり帰らぬもの、夜を明かしたところへ戻るもの、また もといたところをぐるぐる回るものなど さまざまだが、こぞって下りてきて、きらきらする光の中で そこにいた霊たちは、[梯子の]ある段に突きあたりでもすると、あの鴉のようなうごきをするように わたしには思われた。」(266頁)。この一節を読んだとき、まったく唐突にグリッサンが詩的に語る「無限定な数の鳥」(『ラマンタンの入江』15頁)が想起された。そのふたつのテクストが重なると、世界を彷徨せざるを得なかったディアスポラの黒人たちの霊がみやま鴉――黒い羽根を持つ鳥――の群れとして表象されているというイメージが脳裏に浮かぶ。もちろんこれは勝手な妄想である。ダンテが西洋近代化にともなうアフリカ黒人の受難を予言していたとは言えないだろうし、また西洋的「一者」の思考を批判するグリッサンの詩学にダンテが影響を与えているとも考えにくい。(ただグリッサンの葬儀はパリのサン・ジェルマン・デ・プレ教会で執り行われ、そこで流れたのはマタイ受難曲であった。)ちなみに、グリッサンの『ラマンタンの入江』に散りばめられるさまざまな「鳥」のイメージは決してサン・ジョン=ペルスが『鳥』で語るような単数の原型的な鳥、本質的な鳥ではなく、つねに複数として、無限定な群れとしてあらわれる。(散歩者の日記2018年10月7日参照)

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 第30歌から主人公はベアトリーチェとともに神の在所、至高天に入る。そこに横溢するのは花の香と光。ダンテの文学言語は神の姿をどのように描くのだろう。ところが詩人は最後に沈黙するのである。「本当に 言葉は想いにくらべると、こんなにも乏しくて はかないものか!」(417頁)「わたしの幻想の力は、[何も見えぬ]この高みには及ばなかった。」(420頁)先ほど引用した部分では、光の文字が整序されると霊たちの歌は沈黙する。詩人は神を自身の言葉で描写することはできない。ここにはふたつの言語が想定されているのではないだろうか。神の言葉と詩人の言葉。詩人の言葉の限界点で『神曲』は幕を閉じるとは言えまいか。

 ダンテの死後300年以上経って、ブレーズ・パスカル(1623-1662)はその遺稿集『パンセ』のなかで「自然な文体」le style naturel(B29)について考察した。パスカルにおけるnatureをひとまず文体概念ととらえると、大げさな比喩jargonや修辞や幾何学の形figureを排した自然な文体は聖書ないし福音書の言葉(イエス・キリストの言葉、B797)に結びつく。そんなことを『神曲』の結尾で思い出した。40年前に書いた卒論である。

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さて、管啓次郎研究室主催の長編小説/詩読書会、来年はホメロスである。プルーストから始まった西欧文学の旅はついにギリシャの源流へと遡行する。また新しい風景が広がるだろう。楽しみだ。