言葉の翼に乗って ―― ホメロス『イリアス』(下)

ゼウスはトロイエ勢とヘクトルの勝利を望み、海神ポセイダオンはギリシャ側につく。神々同士の反目が人間の争いと絡み合い、壮絶な殺戮の描写が続く。いくらでも引用ができるが、たとえばアキレウスが次々にトロイエの戦士を倒していく場面。「…ついではムリオスに近づきやりで耳のあたりを突けば、青銅の穂先はそのままずぶりと刺さってもう一つの耳からぬっと出る。」(第20歌、p.272)。脳漿が砕け散り、臓物が噴き出す描写がしきりに反復される。またヘクトルの遺骸を徹底的に痛めつけるアキレウスのすさまじさ。シューティング・ゲームの暴力性に眉をひそめる大人たちは『イリアス』の過激さを知るがよい。その源泉はすでにギリシャの古典にある。とはいえ、凄惨な描写は生々しさというよりもどこか芝居がかったスペクタクル(見世物)として読者に差し出されている感もある。それはおそらく口承詩の反復的リズムと定型的表現がもたらす効果であり、そのリズムは読者にパターン化されたゲームを見ているような印象を与える、とでもいえようか。本末転倒の言い方だが。

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戦闘描写のかたわらで、動物たちの描写が面白い。例えば、パトロクロスが討たれたあと、彼が御者をつとめた馬車につながれた馬たちが泣く場面。「馬は見事な車に繋がれたまま頭を地に垂れて、じっと立ち尽くし、今は亡き御者の死を悲しんで泣くその瞼からは、熱い涙が地上に流れ落ちる。豊かなたてがみは頸当の下から軛に沿って垂れ下がり、砂に塗れた。」(第17歌、177頁)随所にあらわれる、死者を悼み「泣く」場面では、人間の場合もたいそう感情をこめて語られる。これも語り物の特徴だろうか。

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下巻を読んで一見奇妙に思われたのは、パトロクロスの火葬が終わった後、アキレウスが賞品を賭けて葬送競技をおこなう第23歌である。あたかも戦争とスポーツ競技が連続しているかのような錯覚に襲われる。両者を同一視することはむろんできないが、このあたりを読みながら、ふとミシェル・セールの『世界戦争』(原著2008年、邦訳2015年)を思い出した。デリダと同い年の領域横断的哲学者はその独特な戦争論において、コルネイユの悲劇『オラース』の読解をひとつの核として、代表制と審判という特徴において、スポーツと戦争を接近させて語る。「ルールの外に戦争はなく、スポーツもない。…対戦するには審判がいる、という意味ではない。それとは逆に、審判そのものが、その細部にわたって勝負を作り出すのである。」(邦訳93頁)。『オラース』において、古代ローマとアルバという都市の戦争は選ばれた戦士たちの代表戦として展開する点にセールは注目する。そして、無差別殺人が横行する近代の戦争をテロリズムと名付ける。そんなことを思い出しながら『イリアス』を振り返ると、これもセールがテロリズムと区別した戦争として語られているといえるだろう。民衆が虐殺される場面はなく、戦士たちはみな家系を名乗り戦う。戦いは軍隊による戦士同士の代表戦なのである。そして神々が審判を務めている…。

ルワンダのジェノサイド、ウクライナ戦争、審判が不在の現代の戦争は無残である。