吉増剛造×ジョナス・メカス『眩暈』を観る

下北沢K2にて井上春夫監督『眩暈』を見る。映画館の座席についたときぼくはかなり疲労していたのだが、フィルムの時間が流れ出すとその疲労は次第に夢幻的なポエジーの霧に包まれていった。3年前に死去した盟友ジョナス・メカスを悼みNYを訪れる詩人はすでに80歳を超えている。メカスのアパートでのインタビュー中に調子を崩して昏倒する直前の映像には緊張する。ありとある言葉を総動員させる吉増剛造の詩の世界。ぼくにとって吉増剛造の詩の在り処は銅板に刻み込まれる文字よりもむしろ、ビデオカメラを回しながらつぶやかれる言葉のたゆといにある。今回はメカスへのレクイエムであり、詩の生成は井上春夫が設定する美しいフレームのなかで行われる。

世界にはいくつもの目がある。目は偏在している。その目がとらえるものの震え。その目に映るものこそが意味をもつ。その目こそが世界をとらえるのだ。ゆらゆらと揺れる詩人による映像とことば。目は複数化するのだろう。すべてのものは客体ではなく主体なのだろう。なんと静かな陶酔と高揚感。

               ★

上演後登壇された吉増さんは「頭脳の塔」を朗読された。60年代末の状況をほうふつとさせる怒涛の朗読。リフレインが叫ぶ。ふいに浮上する下北沢という固有名詞。後日、『吉増剛造詩集』(ハルキ文庫)を読んだ。

               

    歩行ガ、ユメノ、ナカノ、繁ル丘ニ、登ッテイッタ。 「好摩好摩

 

詩が身体に入ってくると車窓から見える風景が変わる。詩の恩寵である。