管啓次郎×石田瑞穂『ストレンジオグラフィ』刊行イベント

 勤め先の仕事がそろそろひと段落。ぶらりと下北沢にでかけた。金曜の宵だというのに閑散とした北口の路地を散歩する。ちょっと淋しいくらいの街の風情がちょうどいい。他にお客さんのいないいつもの店で塩ラーメンを食べ、スタバでキャラメル・マキアートを飲みながら旦敬介『旅立つ理由』を数頁読む。ころあいを見計らって線路を南に渡るとうってかわって人が溢れてる。下北の北と南。B&Bで管さん9冊目のエッセー集『ストレンジオグラフィ』を買って8時からワインのコップ片手に刊行記念トークショーを聴く。今日のお相手は詩人の石田瑞穂さん。ことしH氏賞を受賞された詩集『まどろみの島』よりいくつかの作品が朗読された。静かで深く余韻がある。読んでみよう。スコットランドヘブリディーズ諸島の旅のお話しが印象的だった。去年の9月に見た津田直さんの写真展を思い出す。笑いの絶えないリラックスした対談のはしばしに浮上する管詩学のエッセンス。「...そうすると〈いまいるここ〉と自分の体験の枠すら越えた〈いつかどこか〉は奇妙なモザイクとなって、どこにも実在しない地形と風土を現出することになるだろう。かねてからぼくはそれをstrangeographyと呼んできた。奇妙な異邦の地理学。そして同時に、きみ自身をstrangerとするような非情な地理学だ。」(『ストレンジオグラフィ』p.28)。抒情詩を目指す詩人にとってこの「非情」ということばは要チェックである。抒情とはステレオタイプな形容詞であらわされる感傷とは無縁な、土地や天候と人との敏感な反応である。その抒情には野生的な獰猛さが秘められているように思われる。ちょっとずれるが、キース・ジャレットが自分の音楽創造に込められる「透明な感情」とかferocious longingについて語っていたのを思い出す。それにしてもstrangerって何だろう? 管さんはドアーズのpeople are strange(1967)でしょ、みんなストレンジと笑わせたが、ビリー・ジョエルのstranger(1977)もあったよな、こちらは個人的な心理学だけど。
 だれでも自分の地理学をもっている。出会う風景の並び方はすべてその人のルートに沿って出現する。管さんはそれを強調する。その地理学は一人ひとりの詩を形成するだろう。詩は読む人がつくるものであり、詩を見出すのは詩を読む人である。『時制論』という詩集と『ストレンジオグラフィ』という詩学は一対となって自由へのひとつの扉を指し示している。その扉の向こうには荒野が広がっているだろう。「私にとって詩の主題は地水火風という古来の四大すなわち世界を造形する自然力と人との関係にありそれ以外の興味はすべて付随的なものにすぎない。」(同書p.92)
冬休みにじっくり読もう。それから『遠野物語』とパスカルキニャールの『さまよえる影』も。